“幸せのある関係性”をつくる挑戦

東畑開人さんの『野の医者は笑う』を買おうと思って調べていたら、文春オンラインの記事が出てきた。

読んでいたら、ここの部分でなぜだか涙腺が弱くなって涙が出そうだった。

親密な関係とは特定の相手と深いコミットメントを行うことであり、それは時間をかけるなかで、その相手のいいところとわるいところの両方が見えてくることだ。そこには不快がある。だから、自由を重視するのであれば、不快が増したところで、コミットメントを撤回して、次なる相手にコミットメントを行うことが快を増す。ビジネス的なコスパの計算で考えるとそうなる。

  だけど、親密な関係のふしぎなところは、そういう不快にも関わらず、コミットメントを持続して、時間を共に過ごし続けることに見返りがあることだ。
  
 社会学者の筒井淳也氏が「親密性の社会学」で描いているように、どういう相手を選んだかよりも、選んだ相手との間でコミュニケーションを続け、コミットメントを持続していくことで、親密性から得られる満足度は高くなる。憎しみや怒りの時期を超えて、それでも付き合ってきた長年のパートナーや友人にしかない味わいというものは確かに存在しているではないか。

なぜ涙が出そうになったのかは分からないけれど、最近しばしば考えていたことが言語化されていた。

以前に、恋愛や結婚も永続的なものでなくてもいい、離婚や再婚も転職と同様にあたり前になっていくのではないか、という趣旨のnoteを書いた。

「刹那的な幸せも揺るがぬ幸せ」と思う気持ちは変わらない一方で、憧れていた幸せというものは、やっぱり、記事にあるように「憎しみや怒りの時期を超えて、それでも付き合ってきた長年のパートナーや友人にしかない味わい」なのではないかとも思う。

次のような記事を見るたびに、そんな長年の愛があるのだと驚き、純粋にこれぞ幸せのあり方だなあと感じていた。

時間を経ていくにつれて深まっていく愛情は、大学時代の部活の同期たちにも、今の親友にも通じてあるもので、そこには確かな安心感がある。

だからこそ、これから生きていくうえでのパートナーとなる人ともそういう関係を築いていきたい。冒頭に引用した文章は、そう再認識させられるものだった。

* * *

弟と同居していて恋愛にも疎かった私に、「ずっと弟と暮らしていけばいいんじゃない?」という斬新な問いかけをしてくれた人がいた。

今までにないアイディアだったけれど、考えてみた結果、私にとってはそれは理想ではなかった。

弟はルームシェアメイトとしては、世界一最良な人だと思う。もっとも気を遣わずに済むし、(過去の自分がひどかったので)どんな姿を見せても大して嫌われないという安心感がある。極めて善人だし、正論を言ってくれるし、どんなことにも率直にフィードバックをしてくれる。だから、もっとも楽ちんでいられる。

だけど、冒険がないのだ……!

新しく他人と関係性を築いていくのは大変だと思うけど、でもそこにおもしろさがあると私は思う。私の中では、楽ちんでいられる幸せよりも好奇心の方が勝るのだ。だから、自分の人生においては、他人とお互いに幸せを与え合える関係性づくりに挑戦してみたい。

と、そんなことも考えていたのを思い出した。

記事は、フロイトの言葉を引用してこう締めくくられていた。

思い起こしてみると、精神分析の始祖であるジークムント・フロイトは、心の健康とは何かと問われて、次のように答えていた。 

 「愛することと働くこと」 

 メンタルヘルスの世界には流行り廃りが確かにあるのだけど、結局のところ、私たちは時代を超えて同じことに取り組みながら生きてもいるみたいだ。


花を買って生活に彩りを…