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続・「君は人間力がないね」

一年前、新入社員の私は、環境が合わないという理由で転職を考えていた。結果転職せず、いま私は、そろそろ転職しようと考えている。

だがその理由はもはや、「環境が合わないから」ではない。

「環境が合わない」というのは私の場合、人間関係のことだった。本当に合わない同僚たちがいて、日々低俗な噂話が蔓延し、彼女たちの気分屋な仕事態度も、閉鎖的な空間も、新入社員の私の気を滅入らすには十分過ぎた。端的に逃げたいと思ったし、ここで我慢する時間は人生において無駄だと思っていた。

それでも支えてくれる先輩をなんとか支えにして一年以上続け、今私はなんと、当時最もソリが合わなかった女性と、最も仕事をしやすい関係にまでなった。
仲良くなった、といえば子どもっぽいけれど、私は実際彼女のことを、職場で最も信頼している。私が引き受けた大きな対応も、しんどい作業も、彼女は無言で手伝ってくれるようになった。一年前の私が聞いたら、「いやそれは別人でしょ!?」と驚愕するに違いない。かつて私は、ほぼ一方的に彼女に邪険にされ、無視されていた。
その中で、過酷な業務や、皆がやりたがらないクレーム対応を、ひたすら受け続けた。その中でだんだんと周りの反応が変わっていくのを感じた。渦中の私にとってみれば、それは決して狙った効果ではなかった。私はただ現状が辛くて、逃げ出したくて、でも何もしないわけにはいかなかっただけだった。見返してやるぞ!とか、逆境をチカラにするぞ!みたいなバイタリティ溢れる人間ではない。むしろその逆だ。ただ私はしんどい中で生き続けただけだ。だが彼女は、ひとまわりも離れた若造の私を、だんだんと認めてくれるようになっていった。

いま私が辞めたい理由は、もっとやりたいこと、なりたい自分が明確化したためという、ポジティブな理由だ。現状から逃げたいわけではない。だが私がこの場所でやれることはもうやり切ったと思う。あの時、しんどさを理由に辞めていなくてよかった。それだけで私はすこし、かつての私を誇りに思う。

さて…この一年、しんどくて出勤前に泣くことも、出勤後に泣くこともザラだった私は、絶えず考え続けてきた。何のために仕事をするのだろう、と。

お金をもらっているから、仕事は仕事なんだろうか。
仕事は作業なんだろうか。仕事とは業務内容なんだろうか。仕事とは効率なんだろうか。仕事とは稼ぐことなんだろうか。そういう側面もあるだろう。だが私にとっては違うのではないか。仕事とは、自分のなりたい自分に近づく手段である。誰かをしる、誰かを通して学ぶ、つまり社会と自分との関わりの手段である。
だとすれば、私の人生において、仕事はどのような意味を持つのだろうか。どのような意味を持たせたいだろうか。なぜ働くのだろうか。なぜ働き続けるのだろうか。生きるため、生活費を稼ぐため、ほしいワンピースを買ったり好きな人とお酒を飲んだり、大切な人にプレゼントをしたり、親孝行したり、いつか金銭的な夢を叶える貯金にあてるため、でもあるだろう。
だがそれは、ひとつの側面に過ぎないのだ。

この一年の労働内容は、過酷なクレーム処理と顧客対応、販促で数字を追い続ける営業。書くことや表現が好きな私にとっては、まっっったくやりたいことではなく、興味もなく、好きな作業でも無かった(今でもない)。何故この仕事をしなくてはいけないのだろう?と考え続けた。金のため?金のために心を無にしないといけないのだろうか?と。

同僚の彼女と仕事上のコミュニケーションもうまく取れなかった私に、かつて上司はこう言った。
「君は、コミュニケーションスキル、というか人間力がないんだよ。相手によって態度を変えたり、意図的に別人を演じたりしないと。ビジネスマンの作法、スキルとして身につけないと」

私はますます分からなくなった。この経験については、一年前の私のnoteにも記事にしてあるが…
だが驚くべきことに、現代社会ではコミュニケーションスキルなるものが有用とされている。新入社員の研修でも長々と教え込まれた。グループワークでは、同期と集まって、心理テストみたいなことをし、それぞれを4つのタイプに分類分けした。その後に、そのタイプに合わせたコミュニケーションのシミュレーションをする…という内容…丸一日かかった。
たとえば、熱血タイプには、結論から話す!論理派タイプには、数値的根拠を強調する!…など、細分化された対応方法を、私はそんなもんかと、興味深く聞いていた。

だが当の私は心理テストで、そのクラス内で唯一、どの4タイプにも属さない人間と診断された。点数の多いところに分類分けされるのだが、私は全てが全く同じ点数だった。もちろん、狙ったわけもない。
講師にも「こんなケースは初めてですねぇ…」などと驚かれ、同期には面白がられた。だが私にとってみれば、全く意外なことではなかった。
何故なら、私は自分自身を、昔からずっと矛盾の塊だと認識してきたし、今までにやったどの性格診断も、明確な結果が出た試しがなかったからだ。

世の中には、明らかにAタイプだ!という人間もたしかにいるかもしれず、そういう人間にとってみれば、自分を知る上で有用な診断なのだと思う。だからコミュニケーションスキルを全否定することはしない。
そういうマニュアル的な人間観が、役立つこともある。実際の顧客対応では、そういうことを意識してやっているし、それで円滑に進むケースもあった。
だが私はそれで人間をわかった気になり、その人をうまく扱った気になるのは、恥ずかしいほどに傲慢だと思う。それを社会人の当然のスキルのように語り、それを駆使することが仕事だと豪語する上司には、どうしても賛同が出来ない。
私は仮に自分が他者から何かしらの分類分けをされ、それに準じた判断の元、「わかった」気になられたら、はっきりと不快だ。まあどうでもいいけれど。人間は他人を究極的に理解することはできないし、そういうツールを使うも使わないも当人の自由ではある。

ただ私は自分がイレギュラー診断されるような人間の為、そのようなステレオタイプ的人間観を全く当てにはしていない。

結局は、人と人、だと思うのだ。
効率性、生産性の向上だけでいえば、機械が仕事をしたって同じ、いやむしろそちらのほうが余程効率的だ。いずれ取って代わられる職業ならば尚更、いっそ機械人間になればいい。そうすれば人間関係で悩むこともないだろう。でも、それではわざわざ人間が人間として仕事をする意味などない。それでは嫌だと私は思う。人間は人間であり、仕事をしている私も、私だと思う。
私は人間として、人間を知るために、人間との関わりの中で、愛のある生き方をしたい。
具体的には、理解できないように思われた人生観や世界観を知り歩み寄り肯定できるようになること。全く異なる境遇とアイデンティティを持つ他者の核に触れて、心が震えたり、惹かれたり、愛せるようになること。無情や不合理を見聞きしたり抑圧される中で、それでも私の魂や美学をそれらに侵食させないよう確固たる意思で守り抜くこと。そういうことが最も、重要だ。

だがそういうことは、今の社会で果たしてどれだけ重要視されているだろう。効率。生産性。コミュ力。人間力。たかだか21世紀になって急に台頭したこれらの言葉で私たちの人生における仕事を定義すべきではない。私がまだ大人になり切れていない、不甲斐ない社会人二年目の若者でしか無いからそう思うのだろうか?だがそうだとしても、自分で本で読んだような知識、上司に教え込まれた作業の仕方ではない…到底そんなものではないものを、この一年で学んできた。

人の真摯さが人の心を動かす。人の心が、人間関係を動かす。合わないと思った人と信頼しあえたり、合わないと思った人を愛した経験は、私がこの環境に身を置いた意味になった。これから先、全く異なる環境で全く異なる他者との出会いがあるだろう。それが楽しみだ。私は仕事をしていきたい。自分の為に、自分がもっとなりたい自分になる為に。

さて、一年経っても、上司があの時私に欠けていると言った「人間力」なるものの正体はいまだに分からない。
だが私はそれが分からない人間であり続けたいと、今思う。

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