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01.バーの馴染みにもどるには

「で,嫁が家を出て行ったのです」


ボニーバタフライに来るのは1年ぶりだった。

サラリーマンになって,半年ほどでこの店に来るようになって,あしげく5年ほど通った職場近くのバー。結婚してからぱたりと来なくなった。それでここに来るのは1年ぶり。

カウンターに8席あって,4人掛けのテーブルが1,2,3,4と5つある。あと,6人くらい座れる半個室的なテーブルが2つ。壁際にはダーツ台が2つ。お客さんもそこそこ入っていて,割と繁盛している大きなバーである。

ひさびさに訪れる,かつての馴染みの場所はなんだか気恥ずかしくて,どんな顔をすればいいかわからない。入り口をくぐる時にはいくらか緊張した。

「おー,康ちゃんひさしぶりー!」

顔を見るなりの店長は温かかったけれど,やっぱりちょっと,早くビールが欲しかった。


2杯のビールと,土産話に尽きるのである。

飲めば気もほぐれ,バイトの半分は入れ替わっているけれど古株どころは古株どころで,常連さんは相変わらずの常連さんで,去年の年末はたいそうお客さんも多くて儲かって,オーナーは相変わらずケチで。1年の別空間が流れていた寂しさと,相変わらずがそこにある安心とがまじりあう。

そして冒頭である。

土産話は,嫁が家を出て行ったというお話。
1年のあいだのこちら側では,婚約があって,四国の相手方の実家へのあいさつがあって,結婚があって,妊娠があって,出産があった。そして今日,嫁が家を出て行った。

「だから今日はひさびさにボニーに来たのです」

店長は爆笑である。

だからここにきた。


BGMはcaravanのslow frowという曲だった。店長の趣味で,ここにいるとよく聞ける。「そう,いつも遠回りだったよ。ゆらゆら漂うだけ」という歌詞が耳に残る。スローテンポな曲が心地よかった。たった1年前の独身だった頃が思い起こされて,途端に恋しくなった。

店長はテーブル席の客用にドリンクをつくっている。ジントニック二つと、キューバリバー。

スマホをいじって,今日の昼頃届いた義母からのメッセージを開いた。

しばらく娘をあずかります。あなたが憎くてこうしている訳ではないので誤解しないでくださいね。康一さんもお体には気を付けて。返信は不要です。

夕方,家につくと何もなくて,誰もいなかった。
「実家に帰らせていただきます」的な置手紙でもあるかと思ってドキドキしながらの帰宅だったけれど。昼のメッセージが届いていたし,いつかこんな日が来るのではないかと,毎日びくびくしていたから,なんだか一つの宙ぶらりんが地について,どこかほっとした感じさえした。

ビールを片手に生後3か月の娘の写真をながめていると,写真を見ながらの感情とバーにいる自分との差分に違和感を感じた。心地の良いものではない。


「おー,懐かしいひとが来てるじゃん」

顔をあげると,ちひろさんだった。




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