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古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」がインドの聖典になるまで


 ラーマーヤナは言わずと知れた古代インドの大叙事詩。

マハーバーラタと並んで古代インドの二大叙事詩と言われています。

成立は紀元前3世紀ごろで、詩人のヴァールミーキがインド各地の神話やコーサラ国の伝説的王子ラーマの物語を編纂して成立したものです。

成立から2300年近くたっているのに現在でもインドで根強い人気を誇り、東南アジアなどヒンディー文化が伝播した地域でも長い間語り継がれてきました。

人々に長い間愛され、様々な形で表現されていくにつれ、物語や登場人物は聖典化・聖人化していき、ヒンドゥー文化やインド人のアイデンティティを構成する一部にすらなっています。

今回はどのようにラーマーヤナがインド人の「心のふるさと」となっていったかです。

1. ラーマーヤナのあらすじ


ラーマーヤナはコーサラ国のラーマ王子が、捕われの妻シータを奪い返すために、魔物(ラークシャサ)の王ラーヴァナに戦いを挑む全7巻の物語です。あらすじは以下の通り。

ラーマ王子はアヨーディヤを首都とするコーサラ国の王子で、頭が良く、弓術をはじめ武にも長け、かつ超絶イケメンというMr.パーフェクト。

ある時近隣のヴィデーハ国を訪問中、これまた超絶美女の王女シータと出会い、お互い恋に落ち、結婚をすることになった。

父王ダシャラタはラーマを次の王に就けようとするが、王妃でラーマにとっては義理の母であるカイケーイーの策略によって、シーターと共に首都アヨーディヤを追い出されてしまう。王位にはカイケーイーの息子バラタが就いた。

ラーマはシータと弟ラクシュマナを連れて南にあるダンダカの森を旅し、森を徘徊する様々な魔物(ラークシャサ)たちを打ち倒した。それに怒ったランカー島に住む魔物の王ラーヴァナは、シーターをさらってランカー島に幽閉してしまう。

ラーマは猿の王スグリーヴァを助けて猿軍を仲間につけ、武将ハヌマーンの活躍でシータがランカー島にいることをつきとめた。

そうしてラーマと猿軍はランカー島に乗り込み、ラークシャサ軍と壮絶な戦いが繰り広げられる。

魔術に長けたラークシャサ、インドラジットに苦戦し多大が被害が出るも、インドラジットを倒した後は王ラーヴァナも倒すことに成功する。そして無事にシーターを救出した。

シーターは火の中に入って幽閉中の身の潔白を証明し、ラーマと共にアヨーディヤに帰還。ラーマは王位に就いた。

ラーマは実は地上のラークシャサを滅ぼすために天から遣わされたヴィシュヌ神であったのだった。

しかし人々の間にはシータの身の潔白を疑う声があり、ラーマは苦しんだ挙句シータをアヨーディヤから追放してしまう。追放されたシータは森の中で双子を生み育てた。

その後ラーマはシータに身の潔白の証明を再度求めた。シータは自らが貞操ならば大地が自分を受け入れようと願った。すると大地が割れて女神が現れ、シータは大地に消え、天に上った。

ラーマは嘆き悲しむも、その後も王国を統治した後に天に戻った。

 

これらの物語が完成したのは紀元後3世紀ごろで、第1巻のラーマの幼児時代の話と、第7巻のラーヴァナを倒してアヨーディヤに帰還した後の話は後代に付け足された可能性が高いそうです。

なぜ物語が付け足されたかというと、インドでヴィシュヌ神信仰が盛んになったことで、人々に人気のある物語の主人公ラーマもヴィシュヌ神の化身だったのだ、という解釈を加える必要が出てきたためです。

そのため幼少期にラーマがいかにスペシャルな存在であったかと、王都帰還後に実はラーマの正体はヴィシュヌ神だったのです!という種明かしエピソードが加わったのでした。

 

2. 様々なラーマ物語のバージョンの発展


ラーマーヤナはインド各地の伝承とコーサラ国の伝説をヴァールミーキが編纂して作った物語ですが、実はかつてはラーマーヤナ以外にも様々なラーマ物語が存在していたそうです。

例えば、紀元前2世紀ごろの成立と考えられる仏教の文献「ジャーカタ」によると、シーターはラーマの妹で、ラーヴァナはそもそも存在せず、王都を追放されて森で暮らしてしばらく経った後、2人はアヨーディヤに帰還し共同国王に就任したことになっています。なんかあまり面白くなさそうですね。

別のバージョンで、3世紀ごろのジャイナ教の文献では、ラーヴァナやハヌマーンは魔物や猿などではなくて人間でジャイナ教の信者であるそうです。さらにシータはラーヴァナの娘のこれまたジャイナ教徒なんだそうです。これはまったく別の物語になりそうですね。

少し時代が経って10世紀ごろ、女神信仰が盛んになると、シーターは女神シャクティの化身とされるようになり、1人でラーヴァナと戦い倒してしまうというバージョンも生まれました。この場合、女神が貞操を疑われるということはあってはならないので、実はラーヴァナに捕われたのは「影のシーター」であって、影のシーターが火の中に入ると以前に火神アグニの元にいた本物のシーターが登場するという設定になっていました。

 
6世紀の南インドにて、仏教やジャイナ教を廃し、インド古来の神々に絶対帰依し救いを求めるという大衆的宗教運動「バクティ運動」が始まりました。

バクティ運動は時間をかけてインド全土に行き渡っていき、後にヒンドゥーの主流文化となって深く根を下ろしていくのですが、11世紀ごろからラーマはヴィシュヌ神の化身というよりは、それ自身がラーマ神として信仰の対象となっていきました。

バクティ運動には、民衆に歌って語って聞かせる吟遊詩人が大きな役割を果たしたのですが、この時にラーマーヤナも歌となり、バクティ運動を展開するための手段の一つとして聖典化していきました。

コーサラ国の首都アヨーディヤは聖地となり、ラーマ王子生誕寺院が建てられるなど、ラーマの神格化が進んでいったのです。 

 

3. ヒンドゥー至上主義とラーマ物語統一運動


 このように、時代や人気のある神様が異なるためラーマ物語のコンテクストも全然異なるものになり、またその土地によっても神様の捉え方が違うので違ったものになっていました。

「ラーマ物語」それ自体はインド人が皆共有する物語なのですが、中身は微妙に異なる。

日本全国でうどんは食べられるけど、比較すると麺からスープから具から全然違うようなものでしょうか。

 

ラーマーヤナがインド人にとって「心のふるさと」的な存在になるにつれて、1980年代以降のヒンドゥー至上主義の高まりでラーマーヤナはヒンドゥーとイスラムの宗派対立の火種となっていきます。

有名な「アヨーディヤ事件」です。

アヨーディヤ事件は1992年12月6日、アヨーディやにあるイスラム教のモスク、バーブル・モスクがヒンドゥー至上主義者の襲撃を受け破壊された事件です。

彼らは、

「もともとモスクがあった場所はラーマ王子がいた場所で、本来はラーマ王子生誕寺院が建っていたが、ムガール帝国のバーブルがこれを破壊し、イスラムのモスクを建ててしまった。自分たちはラーマ王子の寺院をここに再建するのだ」

と言うのです。

3回の印パ戦争とカシミール紛争によって宗教観の対立が高まり、ヒンドゥーナショナリズムは高まっていきましたが、その中から1980年代半ばから後半にかけて、ヒンドゥー至上主義をイデオロギーとする「インド人民党」が勢力を伸ばしていきました。

インド人民党はラーマ寺院再建運動の一大キャンペーンを行い、ヒンドゥー至上主義者を煽ってナショナリズムを高め、モスク破壊の間接的なきっかけを作り、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を深めたのです。

その後の選挙でもインド人民党は議席を伸ばし、2018年現在ナレンドラ・モディを党首にして政権与党となっています。

そんな中で、インド国営放送でのドラマ「ラーマーヤナ」の放送を通じて、ラーマ物語の統一化が進んでおり、各地域に存在するラーマ物語をヴィシュヌ信仰・ラーマ信仰をベースにし「標準化」を進めようとしています。

 

まとめ


 元はと言えばラーマーヤナは様々な物語を編集して一つのストーリーにまとめあげたものだったのですが、それが長い間語り継がれ、時代や地方によって都合が良いようにストーリーや登場人物のキャラクターが変更されたりしてきました。

現在はラーマーヤナはインド人の心と切っても切れない存在となり、ヒンドゥーナショナリズムの象徴とすらなってしまいました。

いろんなバリエーションがあったほうが個人的には面白いと思うのですが、各地方のバリエーションと言ってもその土地の人たちとって都合がよいものだったからそうなったものに過ぎない。

現在の規模の大きい国家のスケールで物事を考えると、コンクストは標準化されていく運命にあるのだろうと思うのですが、寂しくもあります。


参考文献

地域の成り立ち (地域の世界史) 山川出版社 Ⅲ統一文化の形成 第1章「インド文化」は存在するのか 辛島昇


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