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#016 マルタに留学して近代哲学の結論に達した話

こんにちは。マルタのタマルです。
今日は「悩む」ということについてのお話です。


マルタでは思考がシンプル

マルタにきて感じたことのひとつは、「悩むことが少ない」ということです。これは、「マルタってとってもネアカな国だから悩みとかいらないよね(キラッ)」ということではなく、単に自分に「悩むほどの語彙がない」という話です。自分の語学力に依拠しています。
たとえば、ごはんを食べたとしましょう。日本語だったら、今まで食べたものと比べたり、味の奥深さを持っている語彙でできるだけ補完しようとします。でも、英語では無理。せいぜい"not good", "not bad", "good", "delicious"ぐらいのもんです。段階が4つしかない。
たとえば心が落ち着くような「やさしい味だね」と言いたくても、それって絶対"kind taste"じゃないよなあ…と思い、口をつぐみます。だから(勉強の一環で後で調べるとしても)、一旦は"very good!"で終わっちゃうわけです。
一事が万事そんな感じなので、基本的に、五感で覚える範囲のことしか口にしないし、考えもしません。だから、悩むことがないんですよね。ご飯がおいしい、今日は暑いね、宿題多くて大変だなあ。That's it.

悩み自体が贅沢品である

そんな日々を2ヶ月ぐらい送って気がついたことがあります。日本語には「贅沢な悩み」という言葉がありますけれど、そもそも「悩み」そのものが贅沢品なのではないか?ということ。
悩むという行為は、さまざまな選択肢が目の前にあって初めてできることです。深く悩めるということは、つまりそれだけ自分の中に選択肢があるということ。そして、人間はその選択肢を言語をもってとらえています。つまり、基礎的な言語力がなければ、人間は悩むことすらできないのです。
もしこれを読んでいる皆さんが、本当に辛い思いに直面していたら、別の言語圏に行くことをおすすめします。どんなに頑張っても悩めなくなりますから!
もしあなたがそれでも悩んでいる場合、その言語がネイティブレベルに話せるか、もしくは自分の母国語で脳を働かせているかの2択だと思います。

「言葉」は「理性」そのもの

このように考えていったとき、わたしはマズローの5大欲求のことを思い出しました。つまり、言語を習得する段階でも、まず人は生理的欲求に基づくものから覚え始めて、さらにそれが快か不快かを伝える手段を手に入れます。最終の自己実現にベクトルが向かう途中までの言語力でも、そもそも「暮らすことは可能」ということです。
それでも、その言語圏にいるからこその理性やマナー、あるいは悩みを蓄えようとした時、さらなる語彙力が必要となる。言語って、人間にとっては理性そのものなわけです。
言語というものが理性そのものなのであれば、本能に直結しただけの言葉しか扱えないうちは、その本質を捉えていないということにもなりますよね。つまり私はまだ英語というツールの1/10も活かせてないということです。
私は趣味で音楽をやるのですが、英語で作詞ができるようになりたいな、と考えています。でもそこに至るには、英語を使いこなせるようにならなきゃいけないですよね。

哲学科の友達に話してみた

……てな話を、音楽仲間でもありよき相談相手でもある哲学科卒の友達に話したところ、

「言葉って理性そのもの」これまさに近代哲学の見出した結論のひとつで、なので現代哲学になると「言語の限界を見極めるための動き」が出てくるという面白い話があります

と返ってきて、どうやら私はようやく近代哲学の結論に追いついたようです。
友達曰く、「自分でそこに追い付くから天才なんだよな……」とのことで、恐縮ですw

そんなわけで

今日は言語と悩みについての話でした。英語と日本語の違いを感じた話については、また別の記事で!

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