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抱っこが教えてくれる、愛された記憶

息子が言葉を覚え始めて、抱っこの事を「あっこ」と言うようになったのは一歳六ヶ月くらいの事だった。一歳十ヶ月になる今でも、一日で一番話している言葉は「あっこ」で、毎日何度も何度も「あっこあっこ」と言って抱っこをせがんでいる。初めは「だっこだよ」と訂正していたけれども、舌ったらずに「あっこ」と言うのが可愛らしくて、ずっと「あっこ」でも良いかなと思う事もある。

私の母に、息子が「あっこ」っと言っては抱っこを求めて可愛いんだよと話をすると、私も子供の頃に「あっこ」と言っていたそうだ。三十年以上前、私も息子と同じように母に抱っこを求めていたと思うと、しみじみと嬉しい気持ちで胸が満たされた。

いつまで「あっこ」と言っていたかは覚えていない。二歳くらいには言葉をペラペラと話し始めたから、息子の「あっこ」もきっとある日突然そんな遠くない日に消えてしまいそうな寂しさがある。

生まれた時は三キロだった息子も、今は十一キロになり随分と重くなった。お米十キロ袋より重い。生まれたばかりで首がすわらず、ふにゃふにゃと頼りなく、横向き抱っこをしていた頃は私も緊張していて、壊れ物を丁重に扱うような気持ちの方が強かった。愛情というよりも責任感だ。守らなければならない義務感が強く、素直な気持ちで可愛いと思える瞬間は、子供が成長する過程で増えていった。

生後六ヶ月頃、息子の体重が七キロくらいの頃合いが一番丁度良かったかもしれない。寝返りはできるけれども、ハイハイを覚えようか覚えまいかと、布団をゴロゴロ芋虫みたいに転がっていた時期だ。ミルクをたっぷり飲んだ後、コアラみたいに私に抱きついて、背中をトントン叩いて子守唄を歌えばすぐに寝てくれた。ピッタリと私の腰骨に小さな脚を絡めて、胸を枕にしてギュッと抱きつく息子を抱き返すことは幸せで、一体感に溢れて、愛に満ち溢れた感覚をもらった。重さもサイズ感も丁度良くて、完成された調和がそこにあった。

十一キロを超えた今、「あっこ」と言われて抱っこすると腰にずしりと重く、何度も抱っこを求められると疲れてしまい、全ての抱っこの要求に応えるのが難しくなった。抱っこを拒否すると悲しげに泣いて、抱っこしてもらうまでグズる息子を見て、いつかは抱っこできなくなると思うとつい抱っこしてしまう。いつまで抱っこして欲しいと、息子は言うのだろうか。私は小学生の低学年まで抱っこが好きだったから、息子も同じくらい抱っこを卒業しないのだろうかと想像する。

一歳、二歳の頃の記憶はない。幼稚園の年中、年長さんの頃、私は母親を見つけると「ママー」と駆け寄って、母親の上半身に飛びついて抱っこをしてもらうのが好きだった。母親に全身を受け止めてもらうことが嬉しかった。にこやかに「可愛いね」と言われるのが好きだった。抱っこちゃん、抱っこちゃん、抱っこちゃん人形だなと良く言われた。抱っこしてもらうことで、私は愛情を確かめていたような気がする。柔らかな抱擁が愛されていることの証明で、安心感と幸福感をもたらしていた。抱っこは、愛された確かな記憶の証だ。

息子が抱っこを繰り返し毎日要求するのは、私と同じように愛情を確かめる行為なのだろうか。何度も抱っこをして、抱きしめられ、抱き返され笑顔を見せる。私が一歳の頃を良く覚えていないように、息子も一歳の今の記憶は消えてしまうのだろう。それでも確かに愛された記憶として、可能な限り抱っこをしてあげたいと思う。

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