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驚いた記事

名門大学MBAで、今一番注目されているのが、「権力の授業」。
という記事を読んだ。
パワーの真の仕組みを理解し、一部の偏った誤解を打ち砕き、そうすることで人間は勇気づけられ、パワーは物事を成し遂げるために必要なエネルギーだと気付くことが大切だと。

確かに全ての森羅万象、良し悪しの両面を持っており、本質を理解しようと言うポイントは、賛成だ。世間では物事自体を単純に取り上げ、これは良い、いや悪いと水掛論で終始している。

そして実社会では、パワーと職権が同一でないことも分かる。職権はパワーの源泉になり得るが、それがあるからといってパワーを持てる保証はない事も事実と述べている。
そして現代社会には人種差別や性差別、民族、宗教、性的指向、階級に基づく差別など体系的な不公正が蔓延している。パワーへの万人のアクセスを民主化するには、そうした不公正に対抗する必要があると。

弱者自身が不当な階層構造を壊すのは無理でも、歴史が示すように彼らが集団行動に加わって変化を起こすことは可能であり、その具現化に対する手段は役割分担。1人じゃ勝てないが皆んなで協力すれば国家すら覆すことができる。そしてその役割分担とは、現状に異を唱えて世論を喚起する「扇動者(アジテーター)」、具体的な解決策を考案する「革新者(イノベーター)」、そして、さまざまなステークホルダーを協調させて解決策を実現に導く「調整役(オーケストレーター)」であると述べている。

この記事を見る限りの感想だが、この思想は「みんなで拳銃を持ち合う」言うアメリカ的な思想が色濃いと感じた。

確かに弱者が虐げられる現状は良くないし、多くの人間はそれを変えられたら良いよねと思っていると思う。だからと言って、相手が強いから此方も一丸となってパワーを持ちましょうと言うのは個人的には好きではない。

基本的に狩猟民族は全ての思考の土台に「勝ち取る」「奪い取る」という理念が根付いていると思っている。決して相手を殺す事は良いとは思っていないが、必要に迫られたらそれは正当化されると言う思想。だから武器を持て、みんなが武器を持つべきだ、となり毎日毎日銃事件を繰り返しているのに、一切の銃規制がかからないアメリカそのものだと感じる。

個人的には権力やパワーの分散は原理原則賛成である。
その手法は「権力の埋め込み」だと思っている。
地下に張り巡らされた制度が高くキチンと整備された配管の様に、普段は土の上から誰も見ることがなく、どの様に張り巡らされ、どのように活用されているのか知るよしもないが、間違いなく全ての配管は活きており上下水道の問題は一切都市で起きていないと言うようなイメージだ。

もしくは、裁判員制度のように、必ず国民全員がその役割になる、しかしいつどこで誰が何にをするのか、その時にならないとわからないみたいなイメージ。そうすれば国民全体に権力やパワーは分散され不公平性は薄くなり、賄賂しようにもターゲットが定まらない、派閥を作ろうにも点でバラバラで、派閥の作りようがない。現状繰り返されている愚かな活動はかなり防げると思っている。

しかしこのシステムを構築したとして、もっとも重要になるファクターは何か?
それは、個々の人間の資質という点にぶつかる。

民主主義も共産主義も理論で見るなら、そこには良くも悪くも中立的な事実が存在するだけなのに、現実社会の民主主義は単なる多数決と化している。それはなぜか?結局個々の人間の資質が理論を活用できるレベルじゃないってことだ。

例えばどんなに素晴らしAiを駆使したシステムを構築しても、使う人間が愚かならば、そのシステムは十分なメリットを生み出す事はない。この点を多くの人間は忘れている。システムを構築すれば問題は解決と考えている人間が多い事自体最大の問題点であると思っている。

どん高額な素晴らしい最新機器を購入しても、人間が使いこなせなければ全く意味はない。科学は善か悪かなんて議論も幼稚で、ポイントはそれを取り扱う人間に全ては委ねられている。森羅万象全ては取り扱う人間の資質にかかっている。

だから、教育が重要になってくる。

昨今の言葉遊びで「〇〇だよね」と言う一つの単語を取り上げて、たとえ悪意がない発言でも、それで傷つく人がいる以上その単語は使わない方が良いと社会は動いており、この言動の自由ですら結局画一的に縛っていこうとしている。
本来「〇〇だよね」と言われた時の文脈を個々の人間が読み取り、良心なのか悪意なのか判断をキチンと取れるのであれば、発言をやめさせる動きにはならない。結局、文脈も読み取れない、そして自分の感情も管理できない、と言う人間の資質の劣化が、あれもだめ、これもダメ、弱者保護という美旗を掲げ、とどんどん画一的な管理体制を強化している現実が目の前で広がっている。
個人的にはこの動きの方が狂気に見える。

権力、パワーの本質を理解しよう、と言う視点は好きだが、それを活用して皆んなで役割分担し国家に勝とう、社会を変えようと言う動きは好きになれない。それはアメリカが抱えている銃社会の繰り返しになるだけだと思う。

今、最も議論されるべき問題点は、人間の資質の劣化だと思っている。
教育を見直し、もう一度人間という動物の本質を理解し、本能とは何か?知性とは何か?を理解し、人間と言う清濁併せ持った矛盾に生きている生物を否定するのではなく、その不完全とも呼べる生物が活きるシステムを考えて、そして我々人間は、そのシステムを使いこなす事ができるように、常に学び成長していく事が、唯一人間にできる事だと思っている。

時代は否定論に覆われている。
自国を否定し他国を否定し、家族を否定し他人も否定し、全て否定的な視点でしか社会は動いていない。それ自体が人間の劣化、もしくは成長できていないと言う最も顕著な証拠だといつも思っている。



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