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aiko「花風」の出典を探しに能因本枕草子を借りた話 -aiko「花風」と清少納言と枕草子-

aikoは人生な文章書く系&小説書くおたくのtamakiです。
noteでは主にaiko歌詞研究と称しaikoの歌詞の読解やら何やらを書いています。

いや~~~~~…。
光る君へ第21回、よかった………………(大の字)

春はあけぼの……枕草子の誕生……それをこんなに切なく美しく映像に表した作品が、かつてあっただろうか……! 私はこれからの人生、この第一段を思い出す時必ずこの回を思い出すのだ……!
定子様の生きる力を取り戻すため……いや、世界はこんなにも美しいということを、世界で一番大切な定子様に教えてさしあげるため……少納言は、ききょうは筆を執った……そうだよ世界って素晴らしいんだよ、素敵なところなんだよ、あなたが生きて、あなたに出逢えてこの方の為に生きようと思えた世界はいとをかしなんだって…!!!
それと同じくらい確かに、あなたが笑って生きていたあの日々は歴史の中にあって、誰にも奪えないもので、輝かしいものなんだって……!!

ええ~~~~~~~ん……光る君へ、素晴らしい清少納言と定子様と枕草子を本当にありがとう、そしてファーストサマーウイカさん、最高の清少納言をありがとう……あなたが演じたききょうが私の一番の清少納言です!!!


私と清少納言と枕草子とaiko

枕草子と清少納言のことを知ったのは初めて日本史を学んだ小学生の頃だったけれど、本格的に興味を持ったのは、日本文学のあらゆるトピックに関心の高かった高校生の頃。当時懇意にしていた先生から田辺聖子の「むかし・あけぼの」を勧められたのがきっかけだったと記憶している。

二十年近く前のことなので内容や読んだ当時の感想は覚えてないけれど(当時から付けている日記があるのでどこかに書いてあるかも知れないが、とても読めたものではないので…)おせいさんが書く枕草子の世界と少納言の姿はとても好ましく、源氏物語もいいけど枕草子もいいなあと感じるようになった。

おそらくだが、中宮定子に熱烈な想いを捧げる少納言の姿は、aikoをひたむきに尊敬する自分の姿とも重なっていたのだと思う。
私も少納言のようにaikoをずっとお慕い申し上げたい、そしてaikoの為の文章が書けたらいいな、と思っていたのかも知れないし、これは大学に進学してからのことだけど、長年続けているブログはaikoの話題を中心に回っているので、まさに私なりの枕草子だな、と思うようにもなった。当然、枕草子と比べるようなものじゃないのは承知の上だが……。

枕草子とaikoと花風

aikoと枕草子。このどう見ても繋がらない二者が、実は意外なもので繋がっている。
それはaikoの名曲・花風、そのタイトルにもなっている「花風」の出典である。

確か発売当時のaikoが花風と言う言葉の意味を話していたような覚えがある。これははっきりしないのだが「辞書で見つけた」的なことも言っていた……ような気がするけどさすがに定かではない。

そこで!持っててよかった発売当時のオリコンスタイル、インタビューにてこんな風に語ってるのでその通りでした。

20年前?またまたご冗談を…ほんまやん

辞書見てて発見した言葉なんですよ。aikoが知らない言葉って死ぬほどあるので(笑)、どんな言葉があんのやろって時々、辞書を開くんですけど。そこでこの言葉を見つけて。“花が咲き乱れている時に吹く風”っていう意味だけど、そういう風って好きな人がいる時に心の中にも吹く気がして。突風みたいに吹き荒れる時もあれば、静かに吹いている時もあるだろうけど。

オリコンスタイル・2004年9月13日号

当時の私はまさに枕草子を授業で学んでいたような高校生だった。そして来る受験に向けて勉強を始めていた頃でもあったので、電子辞書を持ち歩いている高校生でもあった。気になった言葉があったらすぐ引いており、好きな言葉や当時ハマっていたコンテンツに関連する言葉、創作していた登場人物の名前に関する言葉や漢字などをメモリに保存しては読み返してニマニマするタイプのおたくだった。

当然「花風」についても初解禁となったオールナイトニッポンの特番で聴いてからすぐに辞書を引いた。なお収録されていた辞書は広辞苑であった。はず。
……が当時のその電子辞書はもうとっくにどこかに紛失しているので、図書館に赴き第七版を引いてきた。(私が当時見たのは第六版だったと記憶している)それと、ググって出てくるコトバンクのものも引用させてもらう。コトバンクのもの、よく見たら精選版日国大のものなので信用度が高い。

桜の花の盛りに吹く風。また、花を吹き散らす風

広辞苑 第七版

桜花を散らすように吹く風

精選版 日本国語大辞典

両方ともで引用されていた用例が、能因本枕草子だった。

三月ばかりの夕暮にゆるく吹きたる花風

能因本枕草子

その頃私は「能因本」の意味はよくわからず、ただ「枕草子」に出典があることに地味に感動していた。まあ、なんていとをかしなんでしょう。

なお、aikoは他にも広辞苑や辞書から引っ張ってきたような古語の「恋ひ明かす」も曲名に用いている(言わずもがな名曲)(これも当然電子辞書で引いた)
aikoに元から備わっていた教養かというと正直怪しい。すごい怪しい。私は九割がた「ない」と思っている。侮ってすまんけど歴23年の経験値や。
先ほど引用したオリスタでも似たような話をしているが、ネタ探しか何かで広辞苑や辞書を片っ端から繰っていたのではないだろうか、と踏んでいる。恋ひ明かすの用例なんてさ~……枕草子よりももっともっと時代を遡った万葉集なんだぞ…。
もっと気になるのは「風招き」であり、これは古事記に用例がある超ドマイナー古語である。aikoマジでどこから仕入れてきてるんですか。

能因本について

脱線したので戻る。
能因本とは枕草子のいくつかある伝本のうちの一種のことである。

現在私達が読むことのできる多くの枕草子の本は、清少納言が残した原文に最も近いとされる「三巻本」という伝本が基本的には底本になっている。もっと細かく言うとこの三巻本の中でもいろいろあるらしいが、この辺は全然詳しくないので省略する。
能因本は雑に言うと二番目に古い伝本であるのだが、三巻本とは内容が色々と異なっているらしい(ここも詳しくはないため雑に書きます。すいません)また、先述したように現在の多くの枕草子は三巻本が主流となっているため、残念ながら「花風」はそれらの枕草子には存在していない。本当に残念。
なので一口に「花風は枕草子が出典なんだよ~ん」と言うのは、間違っている、とまでは言わないが正確ではない、と言えよう。
ちなみに近代以前は能因本が主流だったので、現在もそれが続いていれば「花風」は今入手できる枕草子の本の中で活字になったものが読めていたかも知れない。

と……思っていたの、だが!
「花風」という表記ではないものの、三巻本ではなく能因本を元にしている枕草子の本があった。
何を隠そう、私を清少納言好きにしたきっかけの作品「むかし・あけぼの」を書いたおせいさんこと田辺聖子が本文を担当した、世界文化社の「ビジュアル版 日本の古典に親しむ⑤ 枕草子」(2006年3月発行)の「風は」にこうある。

花の風、花風!

他の本文が能因本を底本としているかどうかは確認してないのでわからないが、三巻本が主流になっている世の中でこの花風の発見はとても嬉しかった。ありがとうおせいさん、世界文化社~!

能因本枕草子の花風を見よう!

さて話は再び冒頭に戻る。

光る君へ第21回に感銘を受け、「今が旬や!乗るしかない!このビッグウェーブに!」という具合に自分内枕草子ブームおよび清少納言ブームが到来し、図書館で借りた枕草子の関連書を読んだり、高校生当時に読んでいたビギナーズクラシックスの枕草子を読んだり、果ては数年ぶりに完全に創作で小説まで書いた。

そしてふと思う。
能因本枕草子の花風って……実際に見れないのかな。
活字になってるのでもいいから。ていうかむしろ活字になっててくれ、私…崩し字苦手だし……(ほんまに日本文学専攻か?)

ということでね。

これを
こうして
やっほ
こんにちはー
デデドン

へいおまち!!!!!!!!!
多分これまでのaikoに関する活動の中で確実に一番アカデミックなことしてると思う(そうか?)

花風は……これだ~~~~!!!!!!

活字になっている!

ウオーーーーッ!!!!!!!!!
これが!!!! 初出!!!!!!

 風は
 あらし こからし 三月はかりの夕くれに
 ゆるく吹たる花風いと哀也

能因本枕草子・一八五段

いや~……感無量ですね……花風は本当にあったんだ!! 活字だけでなく崩し字の方でも見ることが出来たのも嬉しい! 読めないけど()

千年近く昔に能因本が出来たおかげで花風という言葉が伝わり、三巻本が底本になった今も辞書の中に辛うじて残り、それをaikoが見つけ、曲のタイトルとして用い、まさに世に「花風」を吹かせた……
そう思うと、文学という、「綴り」「残し」「伝えていく」芸術の真の価値に触れることが出来たような気がして静かな興奮を覚え、そしてその中に、私が文学を見出しているaikoもいるのだなと思うと、並々ならない感動に包まれます。大袈裟?

「花風」の方が雅ですよね!??!!?

しかし話はもうちょっとだけ続くんじゃ。

思ったんだけど……この「花風」が能因本にしかない表記だとしたら、じゃあ三巻本が底本になっている今の枕草子って、この部分何になってるわけ?

能因本では一八五段だった「風は」、三巻本が底本となっている枕草子では一八九段に当たります。同じく「風は」の章段です。
光る君へ効果でしょうか、今ネット書店で在庫切れが頻発している角川ソフィア文庫の「枕草子」から引用しましょう。今年の3月が初版という、まさに光る君へ合わせで出た感じがする出来立てホヤホヤの令和最新版枕草子です。(なお一八九段の目次の表題は「風は嵐」となっています)

ネットではなく書店で購入(※下巻はehonで取り寄せ)したので
持つべきものはリアル書店

 風は嵐。三月ばかりの夕暮に、ゆるく吹きたる雨風。

角川ソフィア文庫・枕草子(下)

……。
あめかぜぇ~~~~~~??????
少納言には悪いけど、なんか、なんか……あの!? ありきたりじゃないです!?

だがしかし、注釈によると、「雨風」という表記ではあるが、意味合い的には「花風」であるらしい。

 晩春、花を散らす雨まじりの

角川ソフィア文庫・枕草子(下)注釈

最初の方に引用した花風の辞書的意味「桜花を散らすように吹く風」と、確かに近い。違いとすればそれが雨まじりかそうでないか、である。

……。
いや……なら……ならさあ~~~~!?
なら「花風」にしましょうよ~~~~!?!?!?
というか三巻本さ!誰が写したか知らんが花風にしようっていうセンスはなかったんですかね!??! いやっ……これが一番少納言の書いた形に近いなら少納言も雨風って書いたんやろな……と認めざるを得ない……けどでも私が好きな少納言なら絶対に花風の方が良いって言うにきまってる!

「そうねえ、その方が花びらの散る様が目に浮かんで綺麗だわ」
「うん、花風、それにしちゃいましょ♪」

ってそう言うよね!? そうだよね! 少納言!(イマジナリー清少納言)

ここにある「三月」っていうのも、Wikipedeiaで旧暦三月を引くと「新暦では3月下旬から5月上旬ごろに当たる」ってあるし、梅雨の頃で雨が多いならまだしも、むしろ暖かい晴れの日、満開になった頃にふわあっと、まるで風が花びらでおしゃれするみたいに吹く風の方なのでは? と思うし、そっちの方がやっぱり美しいと思う。
広辞苑でも、まず最初に「桜の花の盛りに吹く風」とある。aikoがタイトルにつけた花風もおそらくこういうイメージだったのではないだろうか。
そして「花風」を聴く多くのリスナーも、思い浮かべるのは雨風ではなくて、暖かな風なのではないだろうか。

独立する花風

まあ。でも。
散々書いてきたものの、「雨風」である「花風」でも、aikoの花風では間違っていないように思う。
究極言えば別にどっちでもいい。しらんがなである。冒頭に引用したオリスタでも「いろんな風であること」を話しているのだ。

そもそもaikoが「雨風」の方の表記を知っていたとはちょっと思えない。「風は」の章段自体、マイナーな方だとも思う。
もっと言うと言葉の出典が能因本枕草子だっただけで、aikoの花風は、彼女の楽曲と歌詞が描く世界は能因本で伝えられた「花風」とは何の関係もない、とさえ言ってしまってもいいと思う。
なので別に雨まじりの風でもいいわけだ。それとaikoの「花風」は本当に何にも関係がない。

枕草子研究者からしても、私が書き散らした怒りはいい迷惑である。あんなのは完全に読む側のセンスの問題でしかない。noteやブログやTwitterで騒ぐのがいい程度のものである。
なので騒いだ。私は!花風の方がいいって思います!ぷん!

aikoの偉業

ところで「花風」という言葉なのだが、能因本枕草子の花風とaikoの「花風」、私はこの二つしか知らない。

先日ウン年ぶりに日本国語大辞典を引いたが、能因本の他に江戸時代の俳諧の用例(五元集(1747年)花風や天女負れて歩渡り)を収録するのみで、本当に本当にドドドドドマイナーな言葉だったことが伺える。たったこれだけでは辞書に収録するのも憚られるのではないだろうか。ただでさえ辞書から消える言葉も昨今多いと言うのに。
ちなみに角川古語大辞典の方には収録されていなかった。となると、本当に用例が少ないのだろう。

ていうか「花風 意味」でググると漢詩の一部や世阿弥の残した言葉の方がトップに出てくるくらいなのだ。「はなかぜ」ではなく「かふう」でのヒットである。二番目にあるのは琉球舞踊用語。こっちは「はなふう」と読む。
とにかく、「はなかぜ」という言葉、ありそうな言葉なわりに、超絶ドマイナー言葉なのだ。

そんなドドドドドマイナー言葉、aikoの花風を除いてたった二つの用例ではそのうち辞書から消えるだろう。
というかそもそも載っていないのではないか。高校生の私は電子辞書に収録されていた広辞苑で見つけたが、学校の図書室で引いた他の出版社の辞書には載っていなかったような気がする。
うん……そんなことを…していたような気がする……捏造の記憶じゃないことを祈る。まあ多分やってたでしょ…今も昔も変わらずaikoのオタクだからな……。
令和の青春を謳歌する高校生や中学生のジャン花ちゃん達も、私みたいに花風を辞書で引いたりしてるのかな。そうだといいな。今だったら相思相愛とかマーカーしちゃいそうね。いいな~かわいい~。

あだしごとはさておきつ。
鎌倉時代から伝わる能因本があるのだから、そうおいそれと言葉自体は消えないのであるが、だけど辞書からはそのうち消えていたかもわからない「花風」という言葉を広めたのは間違いなくaikoの「花風」である。
これはaikoが生涯で成した偉業の一つと言えよう。aikoは知ってか知らずか、一つの言葉の命を救ったのである。

清少納言が本当に花風と書いたかどうかはさておき、「清少納言が書いたと伝えられた」本の中にある花風という言葉をaikoが見つけ、それを元に曲を作った。
それは──清少納言が平安の最推しであり、彼女のように大事な人を一途に想える人になりたい、その人の為に文章を残せる人になりたいと思い、なおかつaikoをその「大事な人」と崇めている私にとって、この上なく素晴らしい奇跡に思えたのであった。

思えば、歌詞の中に「花風」と出てくるのだし、明らかに詞先かつ花風という言葉がモチーフになって作られたことは、オリスタのインタビューも踏まえるとほぼ確実と見ていいだろう。能因本枕草子が「花風」を書き残さなかったら、「花風」と言う曲自体生まれなかった可能性は極めて高い。

それを思うとやはり、能因本枕草子の「花風」を見た時同様に、沢山の人が綴り、残し、伝えていく文学と言う芸術、いや人類の偉業の素晴らしさと、そこにaikoが関わったことに感銘を受けるのである。

aiko「花風」と清少納言と中宮定子

「花風」は大分前であるが読解を書いたことがある。
あるが、大分前なので全然覚えていないし(多分もう十年以上前な気がする)それくらい前だと今のスタイルとは違う書き方なので内容のクオリティは全然保証できない。ので、今回はその読解については触れない。

光る君へのおかげでこのウン十年の人生で一番の清少納言ブームが来ていて、その結果枕草子の関連書籍をいろいろ読み漁っているのは最初に書いた通りである。
そうなってくると少納言と定子様の、性愛の絡まないとても尊くて清らかな想い合いもまた、いろんなところに見出したくなってくる。
何が書きたいかと言うと……aikoの「花風」も、歌詞の本来の読解内容を度外視して、なんとなく少納言の曲のように聞こえてきたなあ…というおたくによくあるやつである。

 生まれ変わってもあなたを見つける
 雨が止んで晴れる様に

aiko「花風」

この歌詞が「花風」で最も肝となっていると私は思うのだが、「雨が止んで晴れる様に」──それくらい当たり前に、次の世でもあなたと出逢えることを、あたしは強く確信している。
それだけ、あたしはあなたのことを強く、ひたむきに想っているのだ。

きっと少納言も定子に対し、こう想っていたのではないだろうか。
中関白家が没落し、愛した帝の元には新しい中宮が立ち──のちに紫式部が仕える彰子である──後ろ盾もないまま、子を産んでまもなく二十四の若さで儚くなった定子。その魂が次の世に向かう道すがらは、どれだけ孤独だったことだろう。
今すぐおそばに参ります、と清少納言は涙に暮れたかも知れない。次の世でもきっとお互い大切な間柄になろう、必ずお逢いしましょうと、そう誓っていたかも知れない。

けれども彼女は筆を執る。
まだ生きて、在りし日の定子との思い出を書き綴る。

 あなたがこの空の下くれた七色の
 世界を守り通すよ 臆病なあたしの胸で

aiko「花風」

枕草子が無ければ、定子のことは没落した家の悲しき姫君と言う印象しか、歴史には残らなかっただろう。枕草子があったからこそ、教養深く機知に富み、まことに玲瓏たる妃であり、気高き女主人であった定子の姿は千年の時を越え、枕草子を読む現代の私達の中に生き続けている。

定子のことだけではなく、少納言が枕草子に書いてきた世界の様々な美しさ、心のいろんな動き、人間観察、つい笑ってしまう面白い出来事、感動した話や考えごと、何気ない日常のスケッチ、時には愚痴やうんざりすること、恨み言のようなことまで……。

そんな世界のありとあらゆることも、全ては宮仕えを始め、素晴らしい主人である定子と出逢ったからこそ書き残されてきたのではないだろうか。
清少納言の世界の全ては、中宮定子と出逢ったことで生まれたのだ。

だから、すべてを書き残す。
あの人との大切な世界すべて。あなたが七色に輝かせてくれたすべてを。
文字にすれば、本にすれば、きっと残る。永遠に出来る。

 生まれ変わってもあなたを見つける
 雨が止んで晴れる様に
 光が射しててそれは綺麗で
 あなただけを照らしてるから

aiko「花風」

aikoの花風を聴いて、清少納言と中宮定子を想う日が来るとは思わなかった。
aikoは枕草子のことなんて全然知らないだろう(ごめんねこんな侮ったこと言って)だからここに少納言と定子を見出すのは私の、作者であるaikoが本来想定しているはずの読みから思いっきり逸れた道を行く、まことに自分勝手な読みである。本業にしている歌詞研究の読解では絶対にやらない読みだ。

それでも、能因本枕草子を出典とする言葉を名にしたこの曲に、これほどまでに清少納言と中宮定子にぴたりとはまるフレーズがあるということ。これもまた奇跡だと言わずして、一体何と言おうか。
清少納言とaikoを慕う私だからこそ、敢えてそう書きたいのである。
私はこれを奇跡だと思う。誇りにも思う。
そして改めて、シンプルながらも強く胸を打つaikoの筆致の素晴らしさに、深く深く感動するのである。

そんな深い感動に浸りながら、今回の筆を置くことにする。
このnoteがきっかけとなって、aikoが好きな人は枕草子を、枕草子を好きな人はaikoを、それぞれ触れてもらえたらこの上なく幸いです。


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