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日本語教師の反省:「正しさ」より優先することってある

私は知らず知らずのうちに「正しさ」にこだわりすぎてきたように思います。「こっちが正しいんだ!」と。自分が決めた正しさに合わない人を批判したりしたことをありました。

でも、もっと人間柔軟にならなくちゃいけないんですよね。

私は、職業柄「正解」「不正解」を明らかにしなければいけない場面が多いです。

ー漢字の読み方で正しいのはどれか。

ーリスニング問題で選択肢のどれが正解か。

ー読解問題で「これ」を指しているのはどれか。

でも、世の中はそんな簡単にはいかないですよね。正しいと思うことでも、状況や場面が違えば、それをちょっと横においておかなくちゃいけないし、例外ということだってあります。

例えば、日本語教育の例では、手土産を差し出すときに「つまらないものですが」という表現があると紹介したとき、学習者が「でも、その人のために一生懸命考えて選んだものだから、私にとっては心を込めたギフトなので、つまらないものじゃないんです」と言ったと聞いたことがあります。「一生懸命選んだものです。きっと気に入ってくれると思います」といって手土産を渡したっていいんですよね。

日本語教育以外の例では、イギリス人とのおしゃべりで失敗があります。こちらの人は社交的なおしゃべりを大切にします。でも、私はこれがとても苦手です。最近、おしゃべりの基本は同調することだと気が付きましたが、それでもまだ上手くできません。

あるあまり寒くもなかった朝、娘のお友達のママが「さむいわねー」と言いました。彼女はなぜかとても寒そうにしていました。「私は寒くない」と返答してしまい、嫌な顔をされてしまいました。これは大失敗でした。寒くなくても「そうねー朝はまだ寒いわねーだいじょうぶ?」とか「私は大丈夫だけど、あなた寒そうね」言えば良かったんです。

日本語を教える仕事は人が相手なので、気を使うことがとても多いです。人は千差万別。顔貌だけじゃなくて、考え方も違えば、好みも、感じ方も違います。そんなすべての人が満足する正解はひとつであるはずがないんですよね。

一般的な考え方と少し違っていてもかまわない。事実がどうかというよりも、相手を重んじて自分の考えを横においておくことも大事。そのときによって優先されることがあるんですから。

最近こう思うんです。「正しさ」を脱ぎ捨てよう。「正しい」ことにこだわりすぎるのはやめよう。柔軟な人間になろう。

自己紹介記事です。


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