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都市での暮らしを山で考える

最近の東京は気が狂うほど暑い。街に出れば汗と排気ガスの匂いで息が詰まる。三菱地所や三井不動産などのデベロッパーは面心立方格子の充填率を計算するのと同じ要領で都市を造っているのだろうか。人は金や銀ではない。そんな都市からのちょっとした逃避行として、先日友人たちと山登りをした。

登った山は三ツ峠山。東京から友人の車で2時間半ほど北西に進む。車内でかけるドライブ用のプレイリストを持ち寄る。基本的にクラシック音楽をかけることが多いが、最近僕はMrs.GREEN APPLEにハマっている。彼らの曲は、日本人の和声に対する感覚を調教しようとしているような面白い構造をしている。この話をすると長くなるので、またどこかで話そうと思う。

山に着き、駐車場に車を停め、ドアを開ける。駐車場の標高は1,000メートル程で、久しぶりに人工的でない爽やかな涼しさを感じる。その時点で僕は十分に満たされた気持ちになる。しかし登山という名目で来たのだから、頂上までの700メートルを登らなければならない。

登山は登り始めるときが一番つらい。いくら自然に囲まれて気持ちがいいとは言っても、汗でシャツはぐっしょりとなり、肺は新鮮な酸素を求めて音を立てる。足元ばかりに目をやると、体力的にも精神的にも疲れが溜まってくるので、目線を上げる。

登山道中で富士山を眺望できる地点が多々ある。

森には都市では見られないような風景が様々ある。そもそも舗装されていない道路を東京ではあまり目にしない。都市に住む多くの人間は、腐葉土の上に落葉が重なったフカフカの絨毯のような道を歩く高揚感を完全に忘れてしまっているのだろう。

黙々と歩いているうちに様々なことを考える。「なぜ僕は好んで東京に住み、休日にはわざわざ山で歩いているのだろう。」東京は地価も高く、僕の家賃も年間で進出すると馬鹿にはならない。最近は住宅バブルの再来のような形でどんどんとその価格は上がっている。その価格推移グラフが、僕の頭の中でYAMAPの標高グラフと重なる。僕が山を登っている間に、東京の不動産価格も着実に上っていた。

そんなところに何故好んで住み付き、汗と排気ガスの混じった空気から逃れるために、お金と時間をかけて山に登っているのだろう。それってとても馬鹿らしいことなんじゃないか。

それに対する反論は見当がつく。(自分の意見に対して『見当がつく』なんで少し変わった表現だが、僕は僕自身の嗜好や意見を俯瞰的に把握できてはいないので、誤った用法ではない。)
①実利的なアドバンテージ
②自身の嗜好性
の2つが主だろう。

もちろんこれを考えたのは登山中で、僕の脳みそは酸素を求めていた。それはお世辞にも深い思考に適した状態とは言えないため、その思考は構造的でもMECEでもない。仮に僕がコンサルタントならば、こんなことを言う部下には黙って「考える技術・書く技術」を手渡すだろう。この場はステアリングコミッティで発表する資料を作成しているのではなく、単なるエッセイであることで大目に見て頂きたい。

まず僕は、自分の中で①が大きいのではないかと主張した。それはつまり、主要な企業は東京や都市圏にあり、魅力的なキャリアや高賃金という、あくまでも実質的なメリットに則って住む場所を選んでいるという主張だ。
この主張の下では、②の都市的で洗練されたライフスタイルの獲得はあくまでも副次的な効用に過ぎず、結果的に獲得されるものなのである。

ただ、僕の中にほんの僅かに残る正直な部分がその主張に異議を唱えた。お前は本当にキラキラした六本木や代々木のおしゃれなカフェに惹かれて上京したのではないのか?このカウンターパンチは明らかに先の主張よりも説得力があるものだった。

これは僕に限らず、多くの人に当てはまるのではないのか。そもそも街づくりを掲げるデベロッパーは、はじめから②のキラキラした街づくりを掲げて都市を作り出している。その方法は時代とともに変わりつつある。産業革命以降の経済効率優先の街作りから、健康と福祉を優先した街作り、人間中心のコミュニティ重視の街作り、そして今ではSDGsに則ったSustainableな街作りへと。どのフェーズにおいても、新しい時代の価値観を反映した街はキラキラして映る。

街は文化や価値観の写し鏡なのかもしれない。そのように考えた時、東京という街は少なくもと日本においては新しい文化や価値観を写している。そこに生きづらさを感じ、週末に山に登る僕は、新しい価値観がまだ体に馴染んでいないのかもしれない。それはちょうど、高い山に急に登ると高山病になってしまうのと似ている。

ヘトヘトの頭でそんなことを考える休日は、東京を生き抜く僕にとっては素晴らしい時間だった。


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