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働かない私は欠陥なのか

という思考に陥っていた9~10月。

働かない=稼ぎがない
こんな私は欠陥人間なのかもしれない

普段は個人事業として、キャッチコピーを考えて黒板を制作すること・人に興味をもって書くライティング、マーケティングの講師などの仕事をしている。そして月6日ほどの自分が心地よいと感じる古民家のうつわ・雑貨店でアルバイトをしている。
とはいえ、8月の手術後には『これ、ヤバいやつ』てなくらいに気力が無くなってしまった。
個人事業からエネルギーという活力を無くしたら、おしまいでは?というくらいにあらゆる意欲がなくなった。

これ食べたい・これ買いたい・これ心地いいだろうな

私の個人事業はこういう意欲があってこそ、成り立っている。

それが無くなってしまった。そういう気持ちが起こらなかった。
手術から二か月もたつのに。

まわりを見れば、正規・非正規関係なくみんなバリバリ働いて、収入を得ている。
わたしは、何もしていない・・・のではないか。

子育て真っ最中のころ、子育てサークルを企画運営し、忙しくくるくると働いていた。子育て・母親支援のステージでは、自分なりに一生懸命やっていたし稼ぎはなかったけど違う意味では十分豊かだった。

でも収入を得るというステージで考えたときに、収入を得ることができていない自分がいて。振り切って収入を得るための行動をおこしていない、そういう私は欠陥人間なのだろうかと真剣に悩んでいた。

私自身が収入を得ていないことで影響を受けているのは、夫。
いうなれば、ほかの誰にも迷惑はかけていないのだ。冷静に考えれば。
夫にも相談した。

夫曰く「働いてないことないやん。何もしてないわけではないし、自由に動けることが一番助かると思っている」と。

そうだった。長女が心身共にバランスを崩したときに、夫も仕事が忙しく、わたしもその時にフルタイムで働いていて、寄り添りたいときにうまく動けなかったのだった。何よりも娘のしんどさに気づいてあげれなかったのだ。
フルタイムで働いていたときは、もちろん収入が安定していた。
ある意味家計は安定していたけど、家庭は安定していなかった感じがする。なんせ私のキャパがいっぱいいっぱいだった。

働かないということが仕事の人が必要

という考えを何かで目にしたことがある。
そのコミュニティの全部が全部、自分の業務に張り付いてしまうと、大切なものを見落としたり、何かの変化に気づけないから、変化に気づける余白のある人を置いておく必要があるということ。

そういえば、この間も血圧が上がりすぎてふらついてしまって不安になった義母から電話があったときに、サッと義母の元にいけたよな私。
働くは傍(はた)を楽にすることって言うもんね。

自分の役割を再定義しかけてきたときに、依頼されてきた仕事がある。
とあるイベントに関わる仕事。
頼まれごとは試されごと。

この仕事を「喜んで!」と受けた背景には、この「とあるイベント」がとても大切なもの・残していきたい独自の地域資源だと感じているから。

私の住んでいるまちに走る電車をテーマにした、創作メッセージ。
全国から応募があるコンテストなのですが、地域独自の文芸となっている。
いまや5000作品を超える応募がある。
にも拘わらず、地域での認知度は低いし重要性が明確化されていない気がする。

こういう目には見えない地域資源を残していきたいコンテンツとして守り育てていきたいと思って、私は関わらせていただいている。
収入という側面からみたら、豊かではないのかもしれない。
でも自分の生き方から見たら、そちらに天秤が傾くほど、私は豊かなのだと感じる。ものすごく。

大切なことだけど、だれもやりたがらないから、やらないを選ぶのか
だれもやりたがらないけど、大切なことだからやる を選ぶのか

こうして、自分が大切だな・残していきたいな ということを助っ人として活動していく「余白家」としてポジショニングしていったらいいのでは?
という考察をしている。

明日は、私の49歳の誕生日
50代を愉しむために、この一年を大切にしていきたいとやっと気持ちが浮上してきた。


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