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【感想文】白痴/坂口安吾

『虚妄の豚人間』

本書には、ある男の近代的自我の破壊と再生の様が描かれている。

その成立過程を以下、説明する。

まず、近代人の歪んだ自我(自尊心・虚栄心・劣等感)を持つ伊沢は、オサヨについて、
<<二百円の悪霊すらも、この魂には宿ることができないのだ。>>
<<この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか。>>
<<人は絶対の孤独というが他の存在を自覚してのみ絶対の孤独も有り得るので、かほどまで盲目的な、無自覚な、絶対の孤独が有り得ようか。>>

という心境を抱いておりこれは、自己の理想から遥かに乖離した現実、それに抗うことのできない自身の弱さ、そういったことの対極に位置するオサヨに対して伊沢は、希望の様なものを抱いている。
また、それと同時に、
<<伊沢はこの女と抱き合い、暗い曠野を飄々と風に吹かれて歩いている、無限の旅路を目に描いた。>>
という描写から、<<暗い曠野>>は「戦争により破壊された状態」のことであり、さらに、本書では「戦争」のことを、<<偉大なる破壊>> もしくは <<切ない巨大な愛情>> と形容していることから、このいい加減な現実を無に帰す究極の解決措置として、戦争による偉大なる破壊を伊沢は待ち望んでいたことが分かる。

が、四月十五日の空襲後、かつて伊沢の中で希望の光であったオサヨの印象は「豚」であったというのである。空襲後、伊沢に残ったのは圧倒的な現実の虚無感のみであり、もはや自尊心、虚栄心、劣等感などというものは消え去り、オサヨは単なる「豚」でしかなく、彼の自我は虚妄に過ぎなかったことを表している。

そして物語ラストの一文には、
<<今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった。>>
とあり、これは一見、伊沢とオサヨにおけるこの先の人生の救いを間接的に表現している様に見えるが、単純にこれは「今朝は寒いから冷えた体を日光で温めたい」という当座をしのぐ為の、直線的な願望を表しただけであり、著者は最後まで現実を徹底しているのである。こうして、ようやく伊沢の現実生活が出発するのだと私は思う。

といったことを考えながら、私は先日放映された「池の水全部抜く!!」というTV番組に感動し、試しに近所の池の水を全部抜いてみたところ、自治体の人に見つかって殴られた。

以上

#信州読書会 #読書感想文 #小説 #日本文学 #白痴 #坂口安吾 #堕落論

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