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【小説】雪栄さん、戻って来て。

雪栄ゆきえさん、戻って来て。」
この張り紙を見た私は思わず立ち止まってしまった。これを貼ったのは確実にあの男だろう。あいつがこの私、雪栄を探している。あの男にまつわる苦い記憶がよみがえってくる——

その当時、生来せいらい放蕩癖ほうとうへきをもつ私は通っていた大学を学費未納により中途退学となった。学費は全て私の遊興費ゆうきょうひに消え、その結果両親からは勘当を言い渡されたため、こうなっては仕方あるまい、職にこうとしたが不況のあおりといつもの怠け癖があいまって就活はことごとく失敗、嫌気が差した私は全てを放棄して毎日の様に往来をフラついていた。世の中に絶望していた。それは自暴自棄に他ならない。酒の量は増える一方で金は底を尽きようとしていた。しかし一時のなぐさみは酒しかなかった。自分がよくないのは分かり過ぎる程に分かっていた。そんなある日のことである。

その日も私は飲み屋のカウンター席で昼酒をあおっていたところ、のれんをくぐって颯爽さっそうと店に入って来たのはあの男であった。一見して、私より二回りは年上と思われるその男は私を見るやいなやぐ隣に座って「おねえさん、昼からいい飲みっぷりだね。」とこう言った。ほっとけクソジジイ、とは流石に言えなかったので、「ええまあ、そうですね……」と返すにとどめた。その日は特にそれ以上話すことはないまま、そろそろ店を出ようと席を立ち店員に会計を申し出ると「代金は既にいただいております。」と店員が指差す向こうにはあの男の姿があった。私は、ありがとうございますとだけ簡単に礼を済ませてそそくさと店を後にしたのである。何かがにおう。

あくる日も男は店にいた。その次の日も、そのまた次も、私の飲み代は全て男が支払った。これは生活がまったく困窮していた私にとって正直、ありがたかった。男に対して徐々に心を開くようになった私は酔っていたせいか、学費未納により大学を退学したこと、就活も失敗したこと、無為むいな毎日を送っていること、金が底を尽きようとしていることを洗いざらい男に話してしまった。そうした私の身の上話を聞き終えた男は、最初から全て知っていたかのようにうなずき、代わって今度は男が自身の身の上を語り始めた。それによると、男はもうすぐ六十歳だということ、最近死んだ父の遺産が数億入ったということ、そのため悠々自適な生活をしているということに加えて、ここ最近は趣味の「阿波踊あわおどり」が高じた結果、阿波踊り教室の講師を始めたことを嬉しそうに語った。何かが臭う。

男の境遇を聞いた私は嫉妬しっとの思いに支配された ——数億の遺産。金の心配は無い。趣味だけを楽しむ生活。労働は不要。自由。そんなことがあり得るのかと思っていたがこれを実現した男が私の目の前に確かにいる。これはまぎれもない事実だ。にしてもうらやましい、遊んで暮らせるだけのお金…… とそんな事を考えていると突然、男は私の手を握ってこう言った。「雪栄さん、私の愛人になってくれないか?」と。私は男の愛人となった。るかるか、そんな思案が巡ることなく、私はこの話に一も二もなく飛びついた。この男と同様、遊んで暮らせるのなら愛人でいい。金があればそれでいい。当時の私は金に支配された単なる木偶でくであった。私から承諾の旨を聞いて歓喜した男はその後、自宅からそれほど遠くない場所を選んで別宅をかまえた。都内に私専用の一軒家が建った。数億の遺産の話はウソではなかったのである。二十歳過ぎにして一軒家に住める、そして働かずに遊んでいられるとは夢のような話である。私は興奮冷めやらぬ中でこの家に住み始めた。が、すぐさま愛人契約を解消したくなった。男の体臭がキツ過ぎるからだ。

何なんだアレは。どうして30年間も風呂に入っていないのだろう。馬鹿だからだろうか。それにも関わらず毎晩毎晩やって来ては私の身体を求めてくる。なぜだろう。馬鹿だからだろうか。そもそもあの男と出会った当時から、何か臭うんだよなあーとは思っていたがこれはきっと泥酔して我が嗅覚が一時的におかしくなったのであろうと勘違いして完全スルーしていた。とすればこの場合、私自身が「馬鹿だからだろうか」に該当するのではないか。にしても30年越しの体臭は凄まじいものがある。正気なのかと問いたい。オマエそれ、伝承造でんしょうづくりなのかと問いたい。いや、というか世間一般に、愛する女性と一夜を共に過ごすのであれば風呂に入るなりして清潔にしておくのが紳士としての礼儀・たしなみではないのか。当然私は、男に体臭を改善するよう求めた。頼むから風呂に入ってくれと懇願した。しかし、男の主張はいつも決まって、

「人間は風呂に入ると免疫力が低下して風邪をひくものなり。」
「体臭、それ即ち男性が放つフェロモンなり。」

と切り捨てて、この男ときたらいっこうに体臭を改善しようとしてくれない。というか何なんだその語尾の 「なり」 は。コロ助かテメェは。ぶっ殺す。「でも歯磨きは毎日欠かさないナリよ。」いよいよコロ助かテメェは。ぶっ殺す。ああ、思い出したくもないあの体臭。一度ぐと全身の毛が逆立って震えが止まらなくなるあの体臭。とにかく臭い、臭すぎる。その臭いをどう例えるべきか、それは実際に嗅いだ者にしか分からないと思うのだが、いて例えるとするなら、「カンガルーの袋の中の臭い」もしくは「水牛のアゴの裏の臭い」といったところか。まあいい。

そうした事情から毎晩のあまりの臭さに耐えきれず、とうとう私は逃げ出したのである。

そこから半年が経った今日、あの男が張り紙までして私の事を探しているという。にしてもここに張り紙があるという状況を踏まえると、男がこの近くを探していたということであり、いやむしろ今も男が私を探している最中だという可能性も十分に考えられる。とすれば、ここに居てはマズい。臭男くさおに捕まってあの家に連れ戻される前にどこか地方へ影を潜めなくては――そう考えた私は即座にその場から立ち去ろうとした矢先、異様な臭いが鼻を刺した。これぞまさしくあの「カンガルーの袋の中の臭い」もしくは「水牛のアゴの裏の臭い」ではないか。そう思って振り返ると、目の前にその男が立っていた。

体中から発散されたその臭いは、街中を埋め尽くし、先程まで晴れ渡っていたあの青空さえもみるみるうちにきたならしい茶褐色に染めていき、そして上空から地上めがけておおいかぶさってきた臭気の重圧に押さえつけられた私はすっかり身動きがとれなくなった。全身が震えだす。頭が回る。目も回る。男は着流しにがさという格好で阿波踊りを踊りながら私の方へ迫り、大音量で流れる祭囃子まつりばやしに合わせて次の様に歌いはじめた。

【ゆきえ音頭】
エーラヤッチャ エーラヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ
エーラヤッチャ エーラヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ

生き地獄それはオマエらの家
年末に換気扇の掃除を怠ったからさ
僕の親友、伊藤 田中 梶原 小早川 は全員クサい
学生の頃 消火器で頭を殴られながら思い浮かべていた事は
ヤマザキ春のパン祭り 毎年どこで開催されてますかねえー

エーラヤッチャ エーラヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ
エーラヤッチャ エーラヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ

私の体臭。それは異臭いしゅうか。
それとも芳香ほうこうか。
異臭と芳香は全然ちがう。
異臭と芳香は全然ちがう。
異臭と芳香は全然ちがう。
異臭と芳香は全然ちがう。
カレーライスとハヤシライスぐらいちがう。
ソーセージと双生児ぐらいちがう。
女王様とお嬢様ぐらいちがう。
松屋と西松屋ぐらいちがう。
アサヒ芸能と週刊実話ぐらいちがう。
たまごクラブとひよこクラブぐらいちがう。
タイタニックと親指タイタニックぐらいちがう。
アイザック・ニュートンと相沢君の乳頭ぐらいちがう。
AKBとBKBぐらいちがう、芸風が。
達也と和也ぐらいちがう、南の興奮度が。
東京ドームとコンドームぐらいちがう、利用目的が。
東京ドームとコンドームぐらいちがう、収容量が。
東京ドームとコンドームぐらいちがう、利用頻度が。
だが利用頻度は人による。

エーラヤッチャ エーラヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ
エーラヤッチャ エーラヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ

今日はいい天気
高島屋の屋上
満天の星空の下
悪夢を見た。

だから雪栄さん、戻って来て。

ゆきえ音頭を歌い終えた男は徐々にその輪郭をうしない、たちまち茶色いきりに包まれて渾然一体こんぜんいったいとなった男の実態たるや今は「臭気」そのものとなり、我が目がかすんでいく中で気体と化した男は再びエーラヤッチャエーラヤッチャと絶叫しながら遥か上空へと消えていった。それからしばらくして空の色は茶から元の青へ戻った。臭気の重圧によってその場に倒れていた人々は立ち上がって何事もなかったかのように再び歩き始めた。私は顔を上げて男の臭いを嗅ごうとしてみたのだが、結局何の臭いも嗅ぎとることはできず、虚空こくうに向かってただみずからの鼻を突き出していただけであった。

【完】

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