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【感想文】姥捨/太宰治

『逆・楢山節考』

本書『姥捨』読後の乃公だいこう、愚にもつかぬ雑感二題以下に編み出したり。

▼あらすじ

妻の浮気を発端に、なぜか夫も含めて夫婦心中しようと死に場所を求めて水上に出向いたその道中、夫が終始ウダウダと弁明を繰り返した末に結局死にきれず、崖から転げ落ちた妻の有様に嫌気が差し離婚するに至った苦心談。

▼雑感① 〜 かず枝と叔父の笑い 〜

本書は『姥捨』という物々しさ漂う表題とは裏腹におもしろ珍道中が展開されており、道中の片割れ、妻・かず枝が終始無邪気&ノープラン人間という点も珍道中の要素ではあるが、本書ラストに登場する、かず枝の叔父に関しても同様である。以下、例を挙げる。

「かず枝のやつ、宿の娘みたいに、夜寝るときは、亭主とおかみの間に蒲団ひかせて、のんびり寝ていた。おかしなやつだね。」と言って、首をちぢめて笑った。

新潮文庫[きりぎりす]所収,P.46~P.47

嘉七がはっきりかず枝とわかれてからも、嘉七と、なんのこだわりもなく酒をのんで遊びまわった。それでも、時おり、「かず枝も、かあいそうだね。」と思い出したようにふっと言い、嘉七は、その都度つど、心弱く、困った。

同著,P.47

以上2点の発言において、元夫への皮肉というよりもなんかズレてるというか、気楽なヤツだなあと私なんかは思う。で、もっと言うと、著者・太宰治は読者を笑かしにかかっている。その露骨な例を紹介すると、次の引用もまた叔父に関する描写だが、

無口な叔父は、「残念だなあ。」といかにも、残念そうにしていた。

同著,P.46

と、これなんかは確信犯的表記であり「残念だなあと残念そうにしていた」って、もっと上手いこと言えたやろ、というアホ臭さがある。

▼雑感② 〜 嘉七の笑い 〜

先のあらすじで述べた「夫・嘉七のウダウダ弁明」も珍道中たる要素となっており、そのウダウダハイライトを2点紹介する。

◎ウダウダハイライト1点目:
「女房にあいそをつかされて、それだからとて、どうにもならず、こうしてうろうろ女房について廻っているのは、どんなに見っともないものか、私は知っている。おろかだ。けれども、私は、いい子じゃない。いい子は、いやだ。なにも、私が人がよくて女にだまされ、そうしてその女をあきらめ切れず、女にひきずられて死んで、芸術の仲間たちから、純粋だ、世間の人たちから、気の弱いよい人だった、などそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ。おれは、おれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。なにも、おまえのために死ぬわけじゃない。私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひとのちからを過信した。そのことも、また、そのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も、私自身、知っている。私は、なんとかして、あたりまえのひとの生活をしたくて、どんなに、いままで努めて来たか、おまえにも、それは、少しわかっていないか。わら一本、それにすがって生きていたのだ。ほんの少しの重さにもその藁わらが切れそうで、私は一生懸命だったのに。わかっているだろうね。私が弱いのではなくて、くるしみが、重すぎるのだ。これは、愚痴だ。うらみだ。けれども、それを、口に出して、はっきり言わなければ、ひとは、いや、おまえだって、私の鉄面皮の強さを過信して、あの男は、くるしいくるしい言ったって、ポオズだ、身振りだ、と、軽く見ている。」
 かず枝は、なにか言いだしかけた。
「いや、いいんだ。おまえを非難しているんじゃないのです。おまえは、いいひとだ。いつでも、おまえは、素直だった。言葉のままに信じたひとだ。おまえを非難しようとは思わない。おまえよりもっともっと学問があり、ずいぶん古い友だちでも、私の苦しさを知らなかった。私の愛情を信じなかった。むりもないのだ。私は、つまり、下手だったのさ。」

同著,P.29~P.30

これ↑の要約:
上記は文字数にして約780文字だが、簡単に言うと『べ、別に、オレはオマエの浮気がイヤで死ぬんじゃなくてオレ自身の処世の問題で死ぬんだから勘違いしないでよねっ!』である。

◎ウダウダハイライト2点目:
「冗談じゃないよ。なんで私がいい子なものか。人は、私を、なんと言っているか、嘘つきの、なまけものの、自惚うぬぼれやの、ぜいたくやの、女たらしの、そのほか、まだまだ、おそろしくたくさんの悪い名前をもらっている。けれども、私は、だまっていた。一ことの弁解もしなかった。私には、私としての信念があったのだ。けれども、それは、口に出して言っちゃいけないことだ。それでは、なんにもならなくなるのだ。私は、やっぱり歴史的使命ということを考える。自分ひとりの幸福だけでは、生きて行けない。私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた。私の世界観がそう教えたのだ。強烈なアンチテエゼを試みた。滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど、次に生れる健康の光のばねも、それだけ強くはねかえって来る、それを信じていたのだ。私は、それを祈っていたのだ。私ひとりの身の上は、どうなってもかまわない。反立法としての私の役割が、次に生れる明朗に少しでも役立てば、それで私は、死んでもいいと思っていた。誰も、笑って、ほんとうにしないかも知れないが、実際それは、そう思っていたものだ。私は、そんなばかなのだ。私は、間違っていたかも知れないね。やはり、どこかで私は、思いあがっていたのかも知れないね。それこそ、甘い夢かも知れない。人生は芝居じゃないのだからね。おれは敗けてどうせ近く死ぬのだから、せめて君だけでも、しっかりやって呉れ、という言葉は、これは間違いかも知れないね。一命すてて創った屍臭ししゅうふんぷんのごちそうは、犬も食うまい。与えられた人こそ、いいめいわくかもわからない。われひと共に栄えるのでなければ、意味をなさないのかも知れない。」窓は答える筈はなかった。

同著,P.31~P.32

これ↑の要約:
上記は文字数にして約750文字だが、簡単に言うと『これまでオレは使命感で死んでもいいって思ってたんだけどソレって結局、犬死いぬじにな気がするからなるべく死にたくないなあー』であり、それも窓に向かって、である。

といったことを考えながら、太宰治の作品は執筆背景と照らし合わせて読むよりも「単なる物語」として読んだ方が、笑える。

以上

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