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【感想文】金閣寺/三島由紀夫

『マツガエの母乳談』

本書『金閣寺』には、抹茶に母乳を注ぐという異様な場面がある。

これが何を意図したものなのか、私の頭脳では全く歯が立たなかった。
で、知り合いのマツガエ君に相談したところ、『母乳抹茶のくだりは金閣炎上の伏線である。』と即答した。

その根拠を尋ねると彼は次の様に語り始めた。

『そうさな。母乳抹茶(P.56)に至ったのは、母親としてのお前の乳を飲みたい(P.124)、という将校の要望に応じての事だが、ただこれは表面上の経緯に過ぎない。なのでこれを基点としたアプローチは無意味なので扱わない。
で、母乳抹茶の説明におけるキーワードとして「永遠」「疎外」「認識」「行為」の四点を軸にして考えてみる。まず、溝口にとって美的な存在だった有為子、彼女が死ぬことで溝口における女性の象徴は確定し、絶対の女性となる。
一方、金閣は絶対の美だった、燃やされるまでは。溝口はこの永遠とか絶対的なものをドモリの反動からか崇拝してるだろう。後半まで。
がしかし、この有為子と金閣の両者が溝口を疎外し続ける。これも後半まで。
で、その後半で「認識」が世界を変えると柏木は言うが、溝口は認識ではなく「行為」だと主張する(P.230)。この辺りから永遠とか絶対というやつが彼の中で崩れ始める。「行為」に話を戻すと、有為子は世間を恐れることなく主体的に死んだ、その行為を果たした点に溝口が影響を受けて、柏木の主張に反発したと思うのだが実はそれだけではなく、溝口の内にある「認識」もその発端となっていて、というのも例えば、南禅寺の女について溝口は当初、有為子に印象を重ねただけであったからだ。有為子の甦りではないのかと(P.57)。南禅寺の女と有為子の境遇も近いから溝口の心持ちは割と健全なんだ、この時点では。

が、その後、南禅寺の女と再会した際(P.162)、彼女の胸が <<無意味な断片(P.162)>> から金閣に変貌し <<無力な幸福感(P.164)>> に酔わされ、絶対的な美を前に疎外感を自覚した挙句、金閣は <<丹念に構築され造形された虚無(P.163)>> と結論付けたりと、過剰ともいえる想像力を働かせて憎悪、復讐の念から金閣を燃やすことを決意する。
というか南禅寺の女だけでなく下宿の女、五番町の女を前にして金閣が出現、彼を疎外してるだろう。
これは彼はいつも金閣がもたらす「認識」の歪みのせいでいつも疎外されてきたといえるわけだ。自意識過剰の感もあるにせよ。

まあいずれにしても歪んだ認識から反発を覚えてるという訳だ。で、この「認識」への執着を捨てて「行為」こそが世界を変える事を証明しようとして溝口は "金閣を燃やすのは徒爾だからこそ燃やす云々(P.274)" とか言っていてこれ、確かにその通りで行為の先にある目的などどうでもよく、彼には「行為」そのものが重要だからそう言ったのだろう。
一旦、ここまでの話を整理すると、"「永遠」を夢想しながらも歪んだ「認識」により「疎外」されて(疎外感を覚えて) 反発に変化し「行為」に走る溝口" という訳だ。とりわけこの「認識」が重要な要素だと俺は思う。前置きは終わった。

で、本題の母乳抹茶の意図についてだがまず、金閣は抹茶、放火は母乳、と置き換えることができる。完全に。
なぜって抹茶に母乳を入れると抹茶はたちまち「抹茶オーレ」あるいは「抹茶ラテ」に変わり、純粋な抹茶は存在しなくなる、これ即ち、絶対的な金閣が放火で焼失したことでこの世に絶対など無く、永遠の美なぞハナから無い、虚無だということを示しているではないか。認識の歪みの産物ともいえる。
さらに、放火という「行為」は溝口に言わせれば <<徒爾>> であり、南禅寺の女は死産したのだから母乳も同様に徒爾だろう。乳をあげる子すらいないのに抹茶にあげてどうする。徒爾だ。まあ認識のおかげで金閣は姿形を変えてこの世に再び現れてもおかしくないかもしらんが、いずれにしても、絶対的な金閣も無ければ抹茶も無い。あるようで無い。よって、母乳抹茶のくだりは金閣炎上の伏線描写なり。』

といったことを考えながら、語り終えたマツガエは『今、夢を見ていた。又、会うぜ、きっと会う。瀧の下で』と言って私の前から消えた。

以上

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