【感想文】夜明け前(第一部・下巻)/島崎藤村
『木曽路にさかる藤の花』
本書『夜明け前(第一部・下巻)』読後の乃公、愚にもつかぬ雑感二題以下に編み出したり。
▼あらすじ:
▼『直毘の霊』について:
本書の第12章第4節では、山吹村で勧請遷宮式が執り行われる。ここでは荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤からなる国学四大人の御霊代をこの村の条山神社に迎え、そして祀るといった場面である。この遷宮式への参列が叶わなかった半蔵は、本居宣長の思想を引き合いに出しながら今後の日本に対する展望を抱く。その中心となるのが本居の著書『直毘の霊』の次の一節である。
現代語訳されていないため多少読みづらいかもしれないが、上記は要するに、「現代日本における物事の道理および是非はこれ全て異国(=中国)由来の漢意のなせる業であり、神を差し置いた『人為』による国の統治手段は、この神国日本において通用するわけがない。それは極悪人の所業であり、日本に聖人なぞいない。あと儒教もムカツク。」と本居宣長は主張している。なお、『直毘の霊』という表題を調べると、直毘神が日本に取り付いた禍(=漢意)を祓い清めるという示唆が込められているのだという。
では上記引用に基づいた、日本のあるべき姿とは何か。
▼『直毘の霊』から見出される意図:
ここで改めて注目すべきは、本書で繰り返し述べられてきた「自然に帰れ」という表記である。これに加え、前述の引用を考慮すると、日本は人為的に国を運営するのではなく、根本に立ち返り、<<天皇尊(すめらみこと)の大御心>>同,P.327 に根差した御政をすべきであり、この状態こそが「自然」だとし、それに回帰せよという意図がみられる。そして第4節ではこうした <<神の御政>> に半蔵は <<まことの革命の道>> を見出している(同,P.327~P.328)。
だが残念なことに、第一部下巻の時点では「御政」とは具体的にどうすべきかの言及はされておらず、この思想に少し荒唐無稽さを感じてしまう。言及してしまうと、人為が生じるため敢えて触れていないのであろうか。あるいは、触れずとも、不変の共通認識として日本人の心の奥に刻みつけられているであろう「神の御心」に委ねることで、日本は自ずから正しい道へと進むに違いない、といった願いが込められているのであろうか。恐縮ながら小生は本書初読につき、この先の展開は1ミリも知らないが、第二部以降は前述した『直毘の霊』および平田国学における大和魂が新政府に対し、何らかの働きかけをするように思われる。なお、今回取り上げた第4節は、慶応3年3月の出来事であり、このあと10月の大政奉還を経て12月に王政復古が宣言され、これをもって第一部終了となる。
といったことを考えながら、本感想文のサムネイル画像は「天狗党水戸浪士と幕府が送り込んだ刺客『ペレ』との一騎打ちを見物している馬籠宿の村人に混じりつつペレに助太刀しようとするクリスティアーノ・ロナウドの図」である。
以上
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