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【感想文】罪と罰(上巻)/ドストエフスキー

『頬を刺す朝の山手通り』

『罪と罰』は一見して状況を把握するのが難しく、作品理解にまで至らぬ者が多いという。
そうならない為にも、一行一行を丁寧に読みこむ事が肝要である。
では、早速やってみよう。

■罪と罰(作詞作曲:椎名林檎)
頬を刺す朝の山手通り 煙草の空き箱を捨てる
今日もまた足の踏み場は無い 小部屋が孤独を甘やかす
「不穏な悲鳴を愛さないで 未来等 見ないで
確信出来る 現在だけ重ねて あたしの名前をちゃんと呼んで
身体を触って必要なのは 是だけ 認めて」

▼1行目:頬を刺す朝の山手通り 煙草の空き箱を捨てる

 ⇒ まず「山手通り」とは、東京都心部の環状6号線(いわゆる環六)を意味する。それに従えば『罪と罰』における「山手通り」は、帝政ロシアの首都ペテルブルグに位置する「リムスカヴァ・コルサコヴァ通り」を指すのであろう。ラスコーリニコフはこの通り付近に住む老婆アリョーナのもとへ、銀のシガレットケース(=煙草の空き箱)を質に流す(=捨てる)。そしてその隙に殺害しようと企てる。

▼2行目:今日もまた足の踏み場は無い 小部屋が孤独を甘やかす

 ⇒ ラスコーリニコフは今日もまた <<船室>>P.202 と呼ばれる足の踏み場もない小部屋で生活する。「孤独を甘やかす」とは、彼にまとわりつく孤独を放置(=甘やかし)した結果、独自の選民思想に耽溺した事を意味する。よって、歌詞1行目〜2行目は殺害を決心するまでの経緯が描かれている訳である。

▼3行目:「不穏な悲鳴を愛さないで 未来等 見ないで

 ⇒ 歌詞3行目〜5行目まで鍵括弧「」で括られている。即ちセリフである。以降、ソーニャのセリフだと見なせば辻褄が合う。「不穏な悲鳴」とは、犯行時の老婆の断末魔と思われるが、ではそれを「愛さないで」とはどういう事か。ここで一旦、ラスコーリニコフの論文『犯罪について』を巡る議論(P.454〜P.457)に目を向けると、彼は「非凡者による犯罪の権利」を主張し、それを適用する形で老婆を殺した。「愛さないで」とはつまり、この危険思想を愛してはダメ、というソーニャの訴えと取れる。とすれば「未来等見ないで」とは <<未来の支配者>>P.457 という愚かな夢など見ないで、とこれも彼女の哀訴ということになる。

▼4行目:確信出来る 現在だけ重ねて あたしの名前をちゃんと呼んで

 「現在だけ重ねて」とは、歌詞3行目の訴えを「今現在だけでもいいので重ねてお願い申し上げます」と丁寧な言葉遣いに改めているだけである。「あたしの名前をちゃんと呼んで」とは、ラズミーヒンがソーニャ(ソーフィヤ・セミョーノブナ)のことを間違えてソーフィヤ・イワノーブナと呼んでしまった場面(P.422)があるので、彼女はそれを突然思い出して「あたしの名前をちゃんと呼ぶようラズミーヒンに伝えておいてよね」とラスコーリニコフに依頼したものと思われる。

▼5行目:身体を触って必要なのは 是だけ 認めて」

 ⇒ラスコーリニコフに必要なのは慈愛の精神、人のぬくもりでありそれを「身体を触って」人肌で確かめよと彼女は言っている。果たして彼は是だけ認めて改心に至るのか、その顛末は次回。

といったことを考えながら、『次回このパターン使って書いたら殺すからそのつもりで。』という幻聴に私は悩まされている。

以上

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