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【感想文】濠端の住まい/志賀直哉

『俺・エクス・マキナ』

本書『濠端ほりばたの住まい』の終盤において、語り手「私」は、捕えられた猫を憐れみつつも結局、助けなかった。その理由は以下の通りである。

私は黙ってそれを見ているより仕方がない。それを私は自分の無慈悲からとは考えなかった。し無慈悲とすれば神の無慈悲がこう云うものであろうと思えた。神でもない人間──自由意志を持った人間が神のように無慈悲にそれを傍観していたという点で或いは批難されれば批難されるのだが、私としてはその成り行きが不可抗な運命のように感ぜられ、一指を加える気もしなかった。

新潮文庫『小僧の神様・城の崎にて』所収,P193

▼志賀・エクス・マキナについて:

前述の引用は、ごく簡単に言うと「猫が殺されるのは猫の運命だからしゃーないやんけ」であり、神の無慈悲に倣って自分も傍観を貫き通し、その結果、遂に猫は夫婦に殺されてしまう。語り手の言う「神」がどういった神なのかは本文からは読み取れないが(旧約の神ヤハウェ?)、語り手が猫を救出するなんてことはせず物語は淡々と終わる。つまり、著者・志賀直哉は写実の文士であるからして、本書に「デウス・エクス・マキナ(※1)」なんてものは適用しないのである。もし仮に、志賀が本書に対し「志賀・エクス・マキナ」を発動してしまった場合、物語の結末は「語り手が突如ヒーローに変身、ミラクルパワーで猫を救出して、夫婦をぶちのめし、猫に殺された鶏が奇跡の大復活」となるであろう。が、前述の通り志賀はそんな余計なことはしない男である。

※1・・・いわゆるご都合主義。物語において面倒な局面を全て円満解決させるために「神的な絶対者」を登場させる手法(あるいは欠陥という見方もできる)。この手法は古代ギリシャ・ラテン文学に顕著だが、シェイクスピアとかディケンズもしれっとデウス・エクス・マキナしてたりするよ。

▼俺・エクス・マキナについて:

志賀が写実の男なら僕は虚飾の男だ。私事恐縮だが私は趣味で小説を書いたりする。で、俺の書いた全作品は、主人公以外の登場人物が全員死ぬ(あるいは失踪する)のが恒例となっている。例えば、「馬に引きずられて死んだ男」「タニシの食い過ぎで死んだ女」「突然イタリアに逃亡した女」「肥溜めに落ちて死んだ猫」等々、例を挙げるとキリが無いのだが、これらは即ち「俺・エクス・マキナ」を適用した結果であり、その際の私の内心はというと──物語をキレイに終わらせるにはどうすればいいんだろう。人物Aを使って行動させるべきか。それとも人物Bに裏エピソードを持たせて伏線とかもバンバン張って……ああもうめんどくさい!AもBも死んだことにすればいいや!そうしよう!俺・エクス・マキナ発動!ってな具合である。つまり、イチイチ考えるのがめんどくさい。そんな私からすると、志賀直哉という自分自身に忠実な人間が描いた本書『濠端の住まい』は自然で好感の持てる内容であった。

といったことを考えながら、結局この感想文で私は「志賀・エクス・マキナ」って言いたかっただけである。

以上

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