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【感想文】戦争と一人の女/坂口安吾

『新旧作品はコンバトラーVとボルテスVぐらい似てる』

本書『戦争と一人の女(※1)』には姉妹作(※2)が存在する。
そこで今回は両作品の比較検討結果を以下に紹介する。
※1・・・以下、『新版』と表記する。
      なお、青空文庫上の表題は「続戦争と一人の女」
※2・・・以下、『旧版』と表記する。
                  なお、青空文庫上の表題は戦争と一人の女

▼『旧版』のあらすじ:
体裁は三人称小説。戦時下、野村は不感症のアバズレ女(※3)と「戦争の間だけの愛情」と互いに割り切って同棲するが、戦火の激しさに準じて二人の愛情も高まる。しかし終戦を迎えたある日、二人の間に「ある意見の食い違い(※4)」が生じてしまい、別離を示唆した形で物語は終わる。
※3・・・以下、「女」と表記する。

▼『新版』のあらすじ:
体裁は一人称小説。語るのは「女」。あらすじは時間軸も含めて『旧バージョン』と同様。また、「女」の知人が数名登場する。

▼ 『旧版』における二人の食い違い(前述※4)について

『旧版』と『新版』のどちらか一方を読んでも、結末が大きく変わる訳でもなければ、読後の印象に変化を与えるものでもない様に思われる。これは著者の堕落思想が一貫しているからであり、両作品においても例によって、「堕落・退廃・虚無の果てにこそ人間のあるべき姿が存在するんやさかいそれを軸にオレらは再出発せなアカンぜ。」という示唆が込められている。で、今回紹介したいのは、あらすじで述べた※4の食い違い、それはつまり、「女」は戦争を通じて著者の思想を見出したが野村は見出さなかった、という別離の決定打となる出来事についてである。この所在が『旧版』と『新版』で異なっている。まず『旧版』からそれが窺える表記は、蒲団のくだりにおける、

<<遊びがすべて。それがこの人の全身的な思想なのだ。そのくせ、この人の肉体は遊びの感覚に不具だつた。この思想にはついて行けないと野村は思つた。>>

と明記されているため分かりやすい。が、一方の『新版』には蒲団のくだりが存在しないため、前述※4の食い違いがどこなのか分かりづらい。ただ、『新版』のある表記を手がかりにすることで『旧版』と同じ食い違い(=思想の対立)を読み取ることができる。それは以下の通り。

▼『新版』における該当箇所について

『旧版』での二人の思想の対立が『新版』ではどの部分に該当するのか解説することにする(←なんて親切な人なんだろう!)。まず、戦況悪化の中、野村の、

<<「君が俺の最後の女なんだぜ。え、さうなんだ。こればつかりは、理窟ぬきで、目の前にさしせまつてゐるのだからね」>>

という死を覚悟した発言(※5)をするが、一方の「女」はその覚悟を <<可愛いい>> と称している。そして終戦後、「女」は、

<<私は永遠の愛情などはてんで信じてゐなかつた。私はどうして人間が戦争をにくみ、平和を愛さねばならないのだか、疑つた。>>

と述懐しており、さらにその直後に <<いのちを賭けて生きてゐたいと思った。>> と願望を告白する。これは死を覚悟していた野村による、

<<「君の恋人(※私注:戦争を指す)が死んだのさ
  野村は私の心を見ぬいてゐた。>>

からも窺え、要するに、この「女」は生を実現する手段を戦争に求めていたのである。そうした「女」とは違って野村は前述※5の発言から、戦争による破壊に生、つまり著者の堕落思想を見出さなかった。よって、この相違により「女」が作中ラストで <<私達は早晩別れるであらう。>> と考えるのは自然のなりゆきであるといえる。

といったことを考えながら、このように新旧作品はコンバトラーVとボルテスVぐらい似てる。

以上

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