鼻歌#2000字のドラマ
外の世界は汗が噴き出してしまう程に熱を帯びているけれど、この場所、アパートの一室は、エアコンと扇風機と夏樹の放つ爽やかオーラのおかげで温度も湿度も雰囲気も心地良い。
「完成したよ。さあ、いただきますをしよう」
「わーい、今日の朝ごはん、どれも美味しそうだね。いただきます」
食卓に向かい合って座った私と夏樹は各々手を合わせ、目はお互いのを合わせ、元気よく食前の挨拶を交わした。
テーブルの上には、今朝、散歩がてら購入した食パン、クロワッサン、そしてオレンジが並んでいる。オレンジは食べ易い様に皮を剥いて一口サイズに切ってくれている。
「あそこの果物屋さんのオレンジはいつ食べても美味しいね」
左側の頬と唇の間に、さっき豪快にかぶりついた食パンのパン屑をつけた夏樹が満面の笑みで美味しさを共有してきた。
「本当に美味しいよね。特に真夏のこの季節にピッタリだよね。体が欲してるのがわかるもん」
真に欲しているのは夏樹からのハグなのだけれども、昨夜もあんなにいっぱい抱きしめてくれたのに、こんなに沢山求めちゃうと嫌われる恐れがあったから声には出さないでおいた。
◇
別のお皿には夏樹が一番得意料理だと豪語する目玉焼きが千切りキャベツ、プチトマト、ウィンナーと共に添えられている。
夏樹と初めてちゃんと話をした会社での歓迎会の席で、自信満々に、
「いつか真由香先輩に目玉焼き作ってあげますから」
と言ってきたのを昨日の事のように覚えている。夏樹という色男は、どんな女子にもそうやって言っているんだと、その時は落胆したけど、どうやらそういう言葉は私にだけ使ってくれているのだと、過ごしていくうち、知っていくうちに気づいて、食パンに乗ったバターのように溶けた。
今、目の前にいる夏樹も、あの時と同じ様なテンションで、
「うん、今日の目玉焼きの半熟具合も最高だ。目玉焼きが上手くできると凄く良い一日になりそうで気分が上がるんだよね」
と言っている。
「夏樹の目玉焼きはいつ食べても世界一だね」
私も負けじと同じテンションで明るく答える。ここも本当は、キャベツの千切りの上手さや、器用にソーセージを蟹の形に切っている可愛さも褒め称えたかった。
だけど私は知っているんだ。目玉焼きの出来具合を褒めた時の夏樹の恵比寿顔を。千切りを褒めたって容姿や性格を褒めたってあんな顔にはならない。その恵比寿顔も私の前でだけ見せてくれる特別な表情の一つだ。私は時たま目玉焼きが食べたくて食べているのか、夏樹のあの表情を見たくて目玉焼きを食べているのか分からなくなる。一つだけ言えるのは夏樹の恵比寿顔は私の顔まで恵比寿に変貌させちゃうってことだ。
◇
恵比寿顔でグラスに視線を移す。
付き合い出してニ年記念の旅行で行った沖縄で購入した琉球グラスには、ここ最近二人共にお気に入りなパイナップルフレーバーのお酢の強炭酸割りが満ちている。
沖縄の青い海に浮かぶように寄り添う真っ白なチャペルに行った時は、少し早いかもしれないけれど、ここで夏樹からプロポーズされるかもしれないな、と淡い期待の気泡が漂ったが、その泡はいつ消えたのかもわからないくらいのタイミングで消えていた。テンションが下がったことを悟られたくなくて、無理に明るい口調で
「素敵な場所だね。いつか私たちもこういう場所で結婚式したいな、なんてね、てへ」
なんて言ってみたら、夏樹は真剣かつ柔らかな表情で
「そうだよね、いつかはこういう所で式挙げたいね」
なんてストレートに言い返してきたもんだから、私の顔は沖縄の夕陽みたいに真っ赤になった。
そのいつかっていつなんだよって考えてた。
夏樹といると結婚を意識する。特に朝ごはんの食器洗いをしている時にはよく考える。
夏樹には癖があるのだ。多くの人と同じように洗い物中に鼻歌を唄うのだ。夏樹は、元々歌手を目指していたから鼻歌であっても上手。その美声をフル活用して毎回お気に入りの歌を唄うのだ。厄介なのは、その歌に『結婚しよう』というワンフレーズがあること。その言葉、歌の一部だとわかっているのに毎度毎度、私の心を掻き乱しまくる。等の本人はただ純粋に好きな歌を唄っているだけだと分かっている。気持ち良さそうに鼻歌を唄う夏樹の存在、テディベア何体分の愛くるしさか計算できない。
でもいつよ。
歌じゃなくって言の葉で『結婚しよう』を贈ってくれる、そのいつかの日、っていつよ。
いつよ、いつよ、って考えてた。
今だって夏樹は今まで以上に幸せそうな口調で相変わらず歌っている。
結婚しよう〜♪
そして続けてこう言ってきた。
「今日のデートも楽しみだね。真由香は今日もお洒落で可愛いね」
「ありがとう。うん、うん、楽しみだね」
いつでもこんな風に私を褒めてくれる夏樹。
最高の彼、夏樹。
そんな夏樹と
今日はこれから初めての結婚式の打ち合わせに出かける。
私も今日は夏樹と一緒に鼻歌を唄っている。
終わり
ここまで読んでいただきありがとうございます。