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我輩は下戸である。

長く抱え続けているコンプレックスがある。
それはわたしが下戸、つまりお酒が飲めないということだ。

下戸なりに言い訳めいたことをさせてもらえば、お酒の味はそれなりに好きで、ワインも日本酒もビールも、自分なりに「おいしい」と感じる。からだが完全に拒絶するアレルギーというわけではないけれど、ビールでもグラスに三分の一ほど、ワインなら底から1センチも飲めば、もうぽわ〜んと思考もやわらかくなり、顔はゆでダコのようになる。つまり体質に合っていないのだろう。お酒を飲む人からしたら、ほとんどではなく、まったく飲めないと分類されるに違いない。

昔から、お酒が飲める人に憧れてきた。
小説やエッセイの印象的なシーンには決まってお酒が登場するし、主人公(もしくは書き手)はお酒が似合う。とろりと黄金色に光る「アマレット」というリキュールに憧れてソーダ割りを頼んでいたのは江國香織の影響だった。著名人のプロフィールに、「好きなものはジン」なんて書いているのを見ると、いいなぁとうっとりする。

うつわが好きなので、酒器を見るのも選ぶのも楽しいし、日本酒だったらこの器で、こんな料理がいいな、と考えるのも至福である。

居酒屋のメニューも、バーの雰囲気も大好きだ。元来食べることが好きだから、ペアリングを楽しむだとか、お酒にあうこの一品、などと聞くとわくわくする。それゆえ、実際には自分とって未知の領域で、なんだか大きな損をしているのだろうなと寂しくなる。

さらに寂しいのは、「やっぱり腹を割って話せるのはお酒の席だよね」というのを耳にするとき。「相手がシラフだとしらけるし、本音で語れない」と言われたこともある。だからわたしは薄いアマレットを頼み続けるわけだけれど、ちょっと待っていただきたい。一線を越えると頭がぼんやりし、心臓がばくばくしてくる状況よりも、一滴も飲まずに話を聞くほうが、わたしにとっては1000倍真摯に受け止められる。シラフのほうが、誇張も謙遜もない、嘘偽りない等身大の自分を語る自信だってある。

そうこうしていたら2人の子育てが始まり、文字通り一滴も飲まない日々を過ごしていたら、これまで以上に、とんとお酒の弱い自分がいる。しかし、そんな現状と相反するように、長女の子育てを一緒に見守り、戦ってきた保育園のママ・パパたちとたびたび飲み会を重ねるようになってきた。しかもわたしのまわりは、とびきり酒豪が揃っているうえに、みんな食べることも大好き。あれがうまい、これが最高だと飛び交う話を聞きながら、わたしもニコニコしながらお酒を舐めたり、せっせとご飯をつくったりしている。(もちろんとても楽しい)

毎日少しずつお酒を飲んだら強くなるのかなぁと、四十を過ぎてもなお、お酒が飲めない大学生のような気持ちを抱えていた矢先。

そんなわたしに、最近変化が見え始めた。
下戸でいいじゃないか、という思い。

きっかけは、先日お会いした文筆家の方の一言だった。
「下戸? いいじゃない、だってね、水谷豊も植木等も下戸なんだから。それにサンドイッチマンの2人だってそうよ。ねぇ、サンドイッチマンが下戸だなんて、なんだか希望を感じると思わない?」

聞けば、その方も断酒を決めて一年になり、もう1滴も飲んでいないのだそうだ。お酒が大好きで、晩酌が毎日の楽しみだったその方が、「お酒がなくても毎日は楽しいってわかった」とうれしそうに話すのは、なんだかとても励まされる気持ちになった。

もうひとつ、わたしの下戸を肯定してくれるものがある。
「男らしさ」「女らしさ」だとか、「パパとママ、育児は両方が当事者意識をもつべき」みたいな世論が盛んな風潮とともに、「下戸は下戸でいいじゃないか」「禁酒はじめました」というのも、声高に叫ばれるようになっている気がする。
町田康の「しらふで生きる」、小田島隆の「上を向いてアルコール」など、お酒を飲まないことを宣言する本も目に触れる機会が増えてきた。

飲んでもいいし、飲まなくてもいい。
飲める人が飲まない日だってあるし、飲みたい時に飲めばいい。
お酒は誰かに強要されるものでも、見栄を張って飲むものでもないし、飲めたらかっこいいわけでもない。お酒を飲む人と飲まない人が一緒に楽しくテーブルを囲めたら、わたしは最高にしあわせだ。

「サンドイッチマンも下戸」。その一言が、なぜかわたしの心をじわじわと温め、支えはじめている。

ちなみに写真の本は、本の雑誌編集部 下戸班編の『下戸の夜』。下戸の主張やベテラン営業マンの下戸処世術から、下戸が楽しめる夜のお店、下戸ブックガイド、なんていうのもあってなかなか面白い。(書店で隣に並んでいたのは『人生で大切なことは泥酔に学んだ』だった)



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