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40代サラリーマン、アメリカMBAに行く

2023年、43歳
意を決して、MBA留学へ

「おまえ、もう40まわってるんやろ?よぉやるなぁ」

2023年3月、MBA(経営学修士)取得のため、海外の大学院を受験することを決めた私は、入学試験のための推薦文を書いてもらおうと先輩に連絡をいれた。その時、先輩に言われた言葉だ。

「いやまぁ受かるか分かりませんし。ちょっと受けてみることにしたんです。それで推薦文の提出なんですが、実は来週なんです。時間なくてすみません!」

「それはまた急やな」

私は、日本のメーカーで働く40代のサラリーマン。毎日の仕事はもちろん甘くはないが、それでも不満だけでなく満足感も所々得ながら仕事はしていた。そんな私がなぜ急にMBAを受けたのか。それは前日に会社で少し世知辛いアナウンスがあったからだった。会社の決定によって自分の生活レベルが簡単に左右させられてしまう。このままでいいのか。そう思った瞬間、気がついたらアメリカのMBA応募に動いたのだった。

MBA留学する場合、上司や先輩からの推薦文が必要なのだが、普通はおよそ2カ月前から依頼して書いてもらうものだという。しかし、私は突然今年受けようと決めた次の日、先輩に連絡して「来週までに書いてもらえないか」という無茶なお願いをしたのだった。

そもそも、この推薦文をお願いした時点で私はエッセイなどもまったく手をつけられていない状況だった。推薦文を書いてもらっている間に並行して学校に提出する英文経歴書やエッセイ、大学の成績証明書を用意する算段だ。期限は1週間。

「ま、短期決戦はおまえらしいんちゃう?」

その5週間後の4月中旬、私はアメリカのバブソン大学(Babson College/起業家教育に特化している大学)から合格通知をもらうことになった。

そして今、8月22日、成田空港からボストンに向かう飛行機の中にいる。春から夏にかけて、人生が大きく動いたと感じる。

MBAは大学を卒業して社会人を2、3年やった時、ふと行ってみようかなと思ったことはある。でも一番最初に働いたリクルートは、本当に朝から朝まで働いたり、残業が少ない日でも22時から朝まで銀座で飲みながら仕事の議論を交わしたり、の毎日で、とても勉強する時間とエネルギーを確保出来なかった。それに私は広告クリエイターの登竜門である東京コピーライターズクラブの新人賞がとにかく欲しかったので、どうすれば獲れるような仕事ができるのか、そればかり考えていた。気づけば30になり、転職もして、最近はグリコでお菓子の広告に関わっていた。2017年からシンガポールに駐在もしていたので、今さら勉強して高いお金を出してまで、海外のMBAに行くことは考えてもみなかった。

コロナが人生の転機
頭をよぎった2人の男

しかし、そんな矢先に新型コロナウイルスが蔓延した。たくさんの方が世界中で亡くなるのをニュースで見ていて、ふと思ったのだった。「オレもしコロナになって今日死んで大丈夫かな?」

「んー。なんか大した人生じゃない」
それが自分への即答だった。

と同時に、ある2人の男の顔が頭をよぎった。ノリとやぶさん。2人ともリクルートの同期で、きっと無意識に自分が憧れている2人。ノリは入社早々会社を辞めて翌春には東京ガールズコレクションを立ち上げた。やぶさんは東大卒で入社早々「リクルートの営業で新人王をとって1年で辞める」と言ってて、本当に新人王をとって1年で辞めていった。やぶさんが辞める時、「会社つくるんだけど一緒にやらない?」と誘ってくれた。銀座七丁目の黒いオフィスビル。天井の低いフロアの私のデスクに電話がかかってきたのだった。

「ごめん。オレまだ何もできてないから。オレ東京コピーライターズクラブの新人賞を取りたいんよ」

あれから20年近くがたった。私は少し立場は違うが変わらず広告を作っていた。日本や中国、ASEAN、アメリカで実施するポッキーの広告やマーケティングキャンペーンを作っていた。ラッキーなことに、というより正確には歴代の諸先輩方が育ててこられたポッキーというブランド力に下駄を履かせてもらって、僭越だが講演や取材の話も頂いてきた。でも、私はこんな思いを抱えていた。

「すごいのはポッキーやん。自分はそのポッキーに関わらせてもらってるだけ。ノリややぶさんは自分の事業を育てている。オレは他人様が生み出したポッキーを、過去にはクライアント(他人様)の生み出した商品や企業の広告を作っている。ただオレも事業を作ってみたい。べつにイコール即独立、起業という訳ではないけど、でもなにか事業そのものを作りたい。他人様のための広告やマーケティングも立派な仕事ではあるが、オレは事業そのものを作ってみたい」

事業を作っていくにあたり、「広告に作り方があるんだから、事業の作り方だって、あるんじゃないの?」と考えた。学生時代、電通で活躍された佐藤雅彦さんの授業を都心から湘南まで通って受けていた。佐藤さんはピタゴラスイッチ、だんご三兄弟、湖池屋のポリンキーやサントリーのモルツなどの広告を手掛けられた方。その佐藤さんが授業で言っていたのが、作り方を作る。センスやひらめきでいきなり作るのではなく、作り方を考えてから、その作り方でなにか新しいものを作り出すというアプローチ。そのためにも様々な作り方を学んだり、あたらしい作り方を考える大切さを教えてもらった。

早速、シンガポール日本人会にある図書館から本を借りてきたり、Amazon.jpで購入したりして、事業の作り方に関する本を片っ端から読み漁った。起業家自身のストーリーや起業の科学など概念をまとめたものなど。私は『エフェクチュエーション』と『ビジョナリーカンパニー④』の内容がしっくり来ていたのだが、一冊の本に出会う。『New Venture Creation』。そしてこの本でバブソンの存在を知ることになる。バブソンがEntrepreneur thought and actionという概念の下、体型立てて事業の作り方を教えているようだ。

聞いたことのない大学だったが、調べていくと事業の作り方を教える世界の教育機関としてはよく名前が上がっており、Entrepreneurという軸だけでも様々なランキングがあるが、おおよそ調べた限りバブソンはスタンフォードと同じくらい名前を見かけた。スタンフォードはMBAランキング上位校で有名だけど、大学時代に短期留学しており、寮にも住んだことがあるので、わざわざ高いお金を払って同じような経験をもう一度するのはいやだった。いわゆる頭の良い学校に行っても特に学びたいことは思い浮かばない。それよりも30年連続でアントレプレナー教育全米No.1というのは、さすがになんかあるだろう。そんな考えでMBAに行くというより、バブソンに行って事業の作り方を学んでみようと考えるようになった。

40歳で猛勉強
上司からの想定外の言葉とは

「どうせコロナで出社も出張も飲み会も無くなって時間もあるので、バブソンに行きたいと思った時にいつでも応募できるように準備だけはしておこう」

コロナ期間中外出禁止が厳しかったシンガポールのおかげで、私はTOEFLやGMATの勉強を就業前と後にやり始めるようになった。ひたすら単語を覚えて、シャドーイングをする毎日。地味だ。しかしやりたくなくても単語帳を開き、やりたくなくてもリスニング問題の音声を流してシャドーイングをした。「僕だって練習に行きたくない日はありますよ。でもどんなにやりたくないと思っても、決めたことを淡々とやること」たしかイチローが何かの密着取材で話していた。

そのためテストスコアだけは今年3月に突然受験を思い立った時点で揃えることができていた。だから急遽出願することを決めてもなんとか応募することができたのだ。

さて、フルタイムのMBAをアメリカで通学する訳なので会社を辞めることになる。合格して嬉しい気持ちは束の間。さてどうやってこの話を会社に言うか。怒られるかな。みぞおちに石がつまった感覚を持ちながら、上司にアポイントを入れた。Teamsでのミーティング。私はスーツにネクタイ。どう見てもこいつ辞めると思われたと思う。

「実はMBAに合格しまして…」話を終えた私に対して、上司が言ったのは全く予想に反していた。「まずはおめでとう。休職にして通ったらどう?」

なるほど。そんか手があったか。会社に戻って事業を作るというのはあり得る。夏目漱石さん、宮本茂さん、田中耕一さん。この3名に共通するのは、全員会社に属しながら、事を起こしたこと。

日本史に残る小説の数々、スーパーマリオブラザーズ、ソフトレーザー脱離イオン化法(ノーベル化学賞受賞)。サラリーマンでもできる、いやサラリーマンだからこそ色々やれるという考え方があるかもしれない。成功確率数パーセントのシリコンバレーの起業家になるのもいいが、会社に属して事業を作るのも同じくらいおもしろいだろう。

そして出国日の前日付で会社を休職になった。これから約2年間会社を休んで、仕事から完全に離れて、事業の作り方を学ぶ。いい年したおっさんが、世界の若者たちとどこまでやりあえるか。40まわった日本のサラリーマンの挑戦の、はじまりはじまり。


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