見出し画像

「あいま」と「消費」

フードスコーレDAY3はポケットマルシェの高橋さん。ポケットマルシェとスーパーの役割の違いや、都市と地方のお話を伺った。その中で、「あいま」と「消費」についての話が印象的で、「間」への関心があることから考えたことを綴ってみる。

あいまについて

日本独自の文化として、『あいま』という考え方がある。

「日本にはあいだを大事にしてきた。日本人は曖昧だ。里山や縁側のように、お互いに浸食しあってるから、けん制し合うし理解し合う。」のだって。

里山は、「人里近くにある生活に結びついた山」。

人と自然のあいだにあるもの。

縁側は、「家の中からすると外とつながるところ,家の外からすると,中にはいるのでもなく,外にいるのでもない,そういう曖昧な空間のことである(Lazarin & 森脇,2010)」 

建築学的にも、縁側のような曖昧な中間領域が大切みたい。

ポケットマルシェは生産者と消費者のあいまに位置する存在。

「発酵」も、自然と文化の間にあるものだと思い、こういう境界が曖昧なものっていいなと思う。


…と思うと、食(食べ物/食べること)そのものが境界を曖昧にするものなのかも知れない?

そういや、海外に行ったときも食を通してコミュニケーションを取っていた。イタリアにいた時、日本語とイタリア語で話しても通じてた笑 あいだに食べ物があったから。食べることは誰にとっても共通の行為。異文化に出会っても、「食べる」という行為をあいだに挟めば、ちがいを受け入れて楽しめる。

異なる価値観を持つ人たちが繋がれる場所としてのあいだに惹かれている。

▽直接繋がるかわからないけど、つながると面白いと思ったことのメモ▽

・和辻哲郎さんの「間」
・複数の人の主観の間で、共通の意識が成り立つ。(間主観性という)。
・環世界という考え方がある。(一人一人、世界の見方は違う。違うからこそ、その間にあいまがあれば、あたらしい知覚が得られるのでは?)
・アウフヘーベン:対立する考え方や物事からより高い次元の答えを導き出す(AとBからCを導く)

都市と地方を「かき混ぜる」

「かき混ぜるとは渾然一体とするということ。」と聞いて、

都市と地方をごちゃっとかき混ぜることで、分断していた世界線を溶かし、関係性を作る。
これは発酵みたいだなと思った(発酵的消費というのだろうか)。
より良い世界を作る(発酵)ために、モノを買う。色んな種類の菌(人)が混じり合うと、よりおいしいもの(世の中)になる。

消費について

ポケットマルシェでは、顔の見える生産者さんから購入できる。

知っている人から食べ物を買うと、余韻が残る。
「食べることには『前』と『後』がある。食べる前は、食材を買うときに生産者のストーリーを知ったり、食材が自宅に届くまでの間、ワクワクできる。食べた後にも生産者さんとやり取りするから、消費に余韻がある。」余韻の残る食事ってなんかいい。

余韻とは、「音の消えたあとまで残る響き。転じて、事が終わったあとも残る風情や味わい。また、詩文などで言葉に表されていない趣。余情。」この世界にいたい、まだ離れたくない、ずっといたい、ということか。

食べることで、知らない世界に出会うことができる。命に向き合う人と出会う。その体験が強いと、余韻にもつながりそう。

「食べることは栄養補給ではない」に共感。食は食べるだけではない。食を通した関係が大好きなんだ。食べ物を介せば、人と愛情を深め、フラットになり、みんな幸せになる。会話にもなる。食べ物を通じた繋がり。食べ物ってすごく大事なもの。

私も、食べものがどうやって作られているか知ることが楽しかった。作り手の考えに触れると、なぜその食材がその土地で作られているのか、どんな社会背景があって作られているのかわかる。外の世界とコネクトするもの。

最後に、各地で育てられた野菜が全国に流通していることについて「流通が成り立ってるのは届ける人がいるから」と言及されたのを聞いた。その後見える世界が変わって、玄関で荷物を受け取るとき(食べ物だけではないが)に、ありがとうと感謝するようになった。人は食べ物に動かされているわけだけど、食べ物を届けるため飛び回っている人たちがいることを思い出させてくれて、分断していた私と流通の世界線を近づけてくれた。

結論:間(あいだ)としての食が好きなのだ〜〜


今回の講義の内容は、あべさんがnoteでまとめられているのでこちらを見ると分かりやすいです。▷




いただいたサポートは「食」を発信する活動に使わせていただきます^^