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生物から見た世界〜「環世界」とは何か

前回書いたように、「情報環世界」は「環世界(Umwelt)」という概念を拡張し、現代の情報社会に適用した概念だ。そこで『情報環世界―身体とAIの間であそぶガイドブック』を読み解くために、まずは「環世界」とは何かをもう少し紹介しておきたい。

コウモリであるとはどのようなことか

東京郊外の一軒家に住んでいた時のこと。ある日の深夜、2階で寝ていると1階の玄関ドアの内側にぶら下げていた小さな鈴がチリンチリンと鳴る音がする。窓もドアもちゃんと閉めたはずだが…。恐る恐る階段を降りて電気を点けてみると、そこにはコウモリが1匹物凄いスピードで小さな玄関の中を飛び回っていた。まったく音もなく飛び回っているのだが、ときおりその鈴の横をかすめて音を鳴らしていたのだ。東京では珍しく護岸工事がされていない土手の残された川沿いで近くには森もあったので、どこからか迷い込んでしまったのだろう。

コウモリには、人間の耳には聞こえない超音波を発して、その超音波が壁や獲物など対象物にぶつかって反射した反響音を感じ取って世界を認識する、エコーロケーションと呼ばれる能力があると言われる。知識として知ってはいたが、真っ暗な狭い空間を壁や障害物にぶつかることなく、音もなく目にも止まらぬ速さで飛び回っているのを目の当たりにして、本当にその能力に驚いた。

ところで、哲学の命題に「コウモリであるとはどのようなことか(What is it like to be a bat?)」というものがあるらしい。これは、(人間の意識のまま)コウモリになってみたら世界はどんなふうに見えるかという問いではなく、あくまでコウモリにとっての世界とはどんなものか、という問いである。目ではなく超音波を使って飛び回る(そしてそれ以外の世界の捉え方を知らない)コウモリにとっての世界と、人間としてのわたしが捉えた世界とは、その同じ場に居合わせていながら、まるで違ったものであるはずなのだ。

生物から見た世界

今からおよそ100年前、生物学者のユクスキュルは、まさにこのような「それぞれの生物がそれぞれの感覚や身体を通して生きている世界」を「環世界(Umwelt)」と名付けた。生物にはそれぞれの生物ならではの「環世界」があるというわけだ。ユクスキュルは、著書『生物から見た世界』の冒頭で、マダニの「環世界」を説明している。視覚・聴覚がない代わりに、嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれたマダニは、木の上から下を通りかかる哺乳類が出す匂いを感じて木から落ちる。運よく獲物の上に落ちることができたら血を吸うことができるが、たまたま獲物が木の下を通りかかるまでひたすら待ち続けなければならない。

哺乳類の皮膚腺から漂い出る酪酸の匂いが、このダニにとっては見張り場から離れてそちらへ身を投げろという信号(Signal)として働く。そこでダニは、鋭敏な温度感覚が教えてくれるなにか温かいものの上に落ちる。するとそこは獲物である温血動物の上で、あとは触覚によってなるべく毛のない場所を見つけ、獲物の皮膚組織に頭から食い込めばいい。こうしてダニは温かな血液をゆっくりと自分の体内に送りこむ。

マダニにとっては、まさにこれこそが世界のすべてなのである。紫外線が見えるミツバチやチョウの環世界、超音波で空間を把握するコウモリの環世界、嗅覚のすぐれたイヌの環世界、それぞれがそれぞれの生物ならではの環世界をもっているのだ。

ユクスキュルの「環世界」で、もうひとつ大事なポイントは、感覚器によって知覚される世界(知覚世界)と、身体を使って世界に働きかける世界(作用世界)が連携することで「環世界」をつくるとしている点だ。世界がどう見えているか、というインプットだけでなく、世界にどう働きかけるかというアウトプットが必要なのである。マダニであれば酪酸の匂いを感じることは、足を木から離して落ちるという行動と連動しているし、ミツバチやチョウは紫外線で見分けた花をめがけて飛んでいき蜜を吸う。このような知覚世界と作用世界の連動をユクスキュルは「機能環」と呼んでいるが、このインプットとアウトプットの連動は、まさにこのnoteでテーマとしたい「“わかる”と“つくる”」にも通じるポイントのひとつだ。

目が見えない人に世界はどう見えているのか

『情報環世界―身体とAIの間であそぶガイドブック』の第1章は、伊藤亜紗さんによる「まず閉じこもることから――身体と情報環世界」という話から始まる。人間にとっての「情報環世界」も、まずはユクスキュルの言う生物的・身体的な「環世界」を出発点に考えてみようというわけだ。

伊藤さんの著書「目が見えない人に世界はどう見えているのか」は、目が見えない人の世界を、健常者を基準として不完全なものと考えるのではなく、「健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使って見る」世界であるとしているところが面白い。実際に目が見えない方々への丁寧なインタビューやワークショップを通して、晴眼者とは異なるその世界の捉え方、まさに「環世界」を具体的に想像させてくれる本だ。

見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまりひき算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私が捉えたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み出す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいのです。

ちなみにこの本から生まれた絵本『みえるとかみえないとか』も素晴らしい。『りんごかもしれない』などで人気のヨシタケシンスケさんによるユーモラスなストーリーと絵で、自分の当たり前がいかに他人の当たり前と違う(かもしれない)か、小さな子どもたちにもきっと伝わるものがあるはずだ。

我が家の子どもたちもヨシタケさんの絵本は大好きなので、いつかわたしも一緒に絵本をつくってみたいものだ。タイトルは「わかるとか わからないとか」でどうだろう。


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デザインエンジニア / Takramディレクター / 東京大学工学部卒、IAMAS、LEADING EDGE DESIGNを経てTakramに参加。ソフトウェア、ハードウェアを問わず、デザイン、エンジニアリング、アート、サイエンスまで幅広く領域横断的な活動を行っています。

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