一筆言 - 6/xx/2022

どうやら玉も流も多忙でしばらく手が回らないらしい。

僕は自分のペースでのらりくらりと移ろっているだけなので、火を吹くような忙しさとは無縁であるが、二人の場合は彼ら自身が主体となって食い扶持を繋ぎ、自分の船に乗せた船員に対する責任も背負っている身であるからして、波の荒れ具合によってはそれぞれの航海にとりわけて集中しなくてはならない。

それでいて、僕が作ったエンジンすら積んでいないこのイカダ船は「書き物」を燃料にしていることも相まって、時間を相応に食う。

二人の活動量や、その活動の性質と照らし合わせると、全く割りに合ったもんじゃないが、一銭も生み出さないこのオンボロによく飛び乗ってくれたなあとしみじみ思う。止まらないように各々が必死に漕げど、それでも度々止まり、また漕ぎ始めてを繰り返し早三年の月日が経とうとしている。

僕個人は、「止まること」をあまり気にしていなくて。

そもそも進む先は「断続的に書くこと」よりも、「止まっても良いから、書くことを止めないこと」だったよな、と。

意識を向けるべきはむしろ、書かない時間。創っていない時間にも在る己にしっかり聞き耳を立てて、巻き込み、或いは巻き込まれた事象を思考に落とし込んでから熟成させていく。これはどの創作活動にも通じる点だと僕は経験上知っている。

さりとて、そんな過密タスクをこなす有望な船員を乗せたプー太郎の僕が、一緒になったつもりで怠けているわけにもいかず。

二人が休んでいる間、少しでもオールを漕いで距離を稼いでおこうという思いつきでこの「一筆言」を始めた。

投稿は完全に不定期の予定。相変わらず前のめりで、書くことも特段決まってないが、三人で書いているものとは嗜好を変えて緩いものを書こうと思っている。

メモ的な内容、面白いと思った英文記事の抄訳、それに伴う考察。あとは、気付いたらアンテナに引っ掛かっていた情報の数々を共有など。

「一筆言」としたのは、僕はとにかく独り言が多い、ただそれだけだ。人が周りにいる時は堪えているが、前なんか一度、弟が家にいると知らずにべらべらとキッチンで話していたら彼に発見されてしまって、本気で心配されたことがあった。

僕にとってはシュミレーションゲームであり、自己防衛訓練でもある。幼少期から続いている習慣で、心配には全く及ばないのだが。

つまり、独り言をそのまま宙に放っても形にはならないが、文字に起こしてしまえば書く内容に困らないのでは?、といった何ともナマケモノな僕が考えそうな二次利用的変換に過ぎない。まあ、とにかく肩の力を抜いて時間を掛けず、屈折自在に書き殴りたい所存である。

実は、本稿を書く前に一度どんなもんかと試みた。

その際は、思いつくままトーキングブルースじゃ!!ポエトリーリーディングじゃ!!と、もつ焼き屋のカウンターでイキりつつ一気に書き上げたものをその翌朝に見返してみたのだが、自分のヌード写真を額に入れて見せて回るよりも恥ずかしいものが出来上がっており、すんでのところで投稿まで踏み切らなかった理性を心から褒めてやりたかった。"I don't give a shit!!"とか何回も書いてて、とにかく激ヤバだったのだ。

酒は勢いをつけるのに有効なのではなく、感覚を麻痺させることにこそ有効であるということは酒飲みとして忘れるべからず。

さて、本題に入りたい。まあ独り言に本題とかないんだけど、形式上、区切り板のように配置しておくとする。

最近悔い改め、決意を新たにしたことがあって。

僕はこの先、また間違いなく日本を出てどこかへ行くと思うのだけど、その先がどこであれ、現地語というものが存在し、その場所に移り住む限りにおいて、現地語の習得に全力で努めよう、いや義務としてそれを自分に課さなければ、と思ったのである。

このように自分を戒めるに至った経緯としては、日本で働く新しい外国人の友達が出来たからで、彼女の学習に対する熱意にただひたすら感服してしまった。

彼女は日本へ移り住んで3年ほどになるが、日本へ来る前は日本に対して特別の興味もなかったらしい。

それが今やビジネスレベル相当の日本語(JLPTでいうところのN2)を取得済みというだけに留まらず、今度は日本語資格の最高レベルであるN1を狙って勉強しているというじゃないか。ちなみに彼女は学生ではなく、日系企業で既に職を得ているにも関わらず、だ。

思わず「なんでそこまでするの?N2持ってたら十分じゃない?」と聞けば、「全然十分ジャナイ。コレも全然ワカラナイヨ」

とスマホを差し出されたので見ると、安全管理系資格のテキストが映っていた。皮相浅薄な自分をすぐさま恥じた。

同じ場所に登るためのステップ数、その段の高さがあまりにも違う。

当然、英語に精通していない日本人が外国へ行けば、専門的な分野を学ぶための前段階として、まずは英語を勉強しなければならないのは道理としては一緒だが、英語と日本語じゃあそもそもウニと栗くらい中身が異なる。(例えるの下手なので、それも練習します)

それからというものの、彼女が暇な時間に日本語を教えて欲しいというので、質問がくればその都度教えたりしている。

先日は、「会議」と「打ち合わせ」の違いは何かと聞かれ、面白い質問だなあと思わず唸った。

どうやら職場の先輩にも問うてみたらしいのだが、「同じ意味だよ」と返されてしまったという。

しかし彼女はどうにも腑に落ちず、漢字を眺めているうちに、「議」の旁(つくり)部分である「義」を、かたい意味を持つ漢字でしか見た事がないことから、「打ち合わせ」とは明確な違いがあると推測した、というではないか。

その洞察力と圧倒的な言語センスに度肝を抜かれたが、最も感銘を受けたのは、彼女が学び取ろうとしているのはもはや言葉の先、つまり文化だ。

職場の先輩が何の気無しに返した「同じ意味だよ」は、ある意味で全く間違っていない。

僕らは日本語のネイティブスピーカーで、日本に生まれ育っているからこそ、文字や文章の細かな差異やコンテキストを即座に吸収し、理解し、またアウトプットとして発話する事が出来る。

それもこれらを瞬間的に織り交ぜながら。

だからこそ 、時に「会議」の意味で「打ち合わせ」を使ったり、またその逆であったとしても、その小さな違和感を無意識に濾過した上で、ほぼ同等なものとして扱うことを良しとしている。それ故の「同じ意味だよ」なのだろう。

けれども異なる文化圏から来た日本語の学習者が、包括的な文化を意識せずともフィルターに掛け、細分化された差異すらも瞬時に変換出来るようになる、これはもうN1だろうとなんだろうと、定量的に計測出来る"しきい値"の遥か向こうに到達点があるに違いない。いかなる言語の学習者である限り、決して終わりの無い道を進んでいくことでしか持続的な向上は図れないというのは僕にとっても耳の痛い話ではあるのだが。

僕はと言えば、過去の海外移住歴は約3年ほど。国としては計2カ国で、最初に移住したフィリピンには2年住んでいたことになるが、公用語であるフィリピノ語(タガログ語)はろくすっぽ話すことが出来ない。

そもそもフィリピンに渡ったのは多分に漏れず英語を勉強するためであった。

悲願の海外長期滞在が叶ったこともあり、特に苦労もせず順調に英語力は伸びていったから、第一の目標はそこそこ達成出来たとは思う。(とは言え、元がクソミソだから、今はクソになった程度)

ただ、僕は合法な侵入者に過ぎなくて、あくまで「仮住まい」をさせてもらっているという謙虚な姿勢を忘失していたな、と前述した友人の姿勢を見て、身の置き所もなくなった。

学校を卒業後、現地の日本人や外からきた多国籍の移住者が好むコンドミニアムへは移らず、ローカルのカビ臭いアパートへ越したのは、現地人がどのように暮らしているかを肉体的に経験したかったからに他ならないが、現地で話されている言葉を学ばずして、今となってあれは比重としては自己陶酔に過ぎなかった、と猛省している。

言葉には事実と意味が同居していて、事実は意味ほどに異国間で差異が少ないから、スムーズな翻訳が可能なのだろう。

しかし果たして、意味ならどうか。言葉の意味は、外側から持ち込んだ事実だけで掴めるほどその輪郭は確かなのか。

文化とは果たして頭を悩まさずとも簡単に咀嚼でき、体の芯まで落としこめるものであったか。

移動を許されている立場として、その責任のある態度を温かく迎え入れてくれた土地に返報出来なかったことだけが悔やまれる。

"英語だけ出来れば十分でしょ"

そんな言葉が聞こえなくもないけれど、先進諸国の中で英語話者が最も少ないことに加え、英語に比べて遥かに需要が少ない日本語を死に物狂いで学ぶ外国人に日本人としてなんと説明すれば良いのか。

あれ、気付けばいつも通りカタクなっていないか?

ええい、次週!「30才無職が出会い系アプリをやったらマッチングするのか!」に続く。

Written by 成

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