この心の、処方箋

薄暮 -成-

思考が桶に水を貯めるようなものだとすれば、書くことは排水に違いない。
冬から春にかけての季節、僕の桶は濁り水で度々一杯になる傾向にあり、水が汚れていく速さに排水が追い付かず、溺れかけることも。

日本に帰って来て約2年が経とうとしていて、良否双方の意味で完全に順応した。
もう少しで忘れかけていたような感覚も多く取り戻しつつあり、やや扱いに悩むこともあれど、こうしてせっせと水換えを繰り返す以外に最良の選択は無いと分かっている。

名古屋入管に収容されていたスリランカ人女性のウィシュマさんが亡くなってからちょうど1年が経った。
この事件が起こるまで恥ずかしながら入管についてほとんど知らなかったのだが、入管側が行ったとされる非人道的な行為が明るみに出るにつれ、ますます根本的な問題について知らなくてはならない、と思った。

しかしながら入管側が開示した1万5000枚にも及ぶ資料のほとんどは黒塗りにされていて、入管の秘密主義的な体質が露呈したばかりか、真相究明は現在に至るまで行われていない。

人権保護団体が繰り返し声を上げている。僕よりも若い世代が制度や構造相手に喧嘩しているのを見ると、血が沸く。この玉・流・成の活動を始めた理由には同様の思いが込められていたりもする。発信するということが今の僕に出来る事で、読んでくれた人たちが少しでも関心を持ってくれるかもしれない、という思いを込めてキーボードを押下している。無関心であることやその態度は構造力的な暴力や理不尽を助長するし、誰もそんな状況に自ら好んで加担していたいと思っていないはずという見地から、僕は人を信じることを諦めていない。

偶然にも「牛久」という入管施設を舞台にした映画が2月下旬に公開される事を知り、実態についてより詳しく知りたかった僕はためらわずに観に行くことを決めた。

監督はトーマス・アッシュというアメリカ人の監督で、一切の撮影・録音が禁じられている入管内を盗撮という手法で記録した、という触込みがパンクで更に興味をそそった。

肝心の内容と言えば、一言で「痛みを伴う」作品だった。
それはショッキングな事実を突きつけられたことで発生した痛みというよりは、問題を直視し、能動的に知ろうとした時に起こる軋轢のようなものだった。簡単には飲み込めないからこそ忘れない。もう当事者になってしまった現実からは逃げれない。

現在の入管法では事実上無期限の収容が可能であること。
仮釈放された被収容者らは、就労が認められず健康保険に加入が出来ない。
頼るあてのない非正規滞在者たちは路上生活を送る以外にどうしろというのか。
日本は国連からの人権条約違反、国連憲章違反等の批判に耳を貸さず今も難民を長期収容し、強制送還し続けていること。
オーバーステイで収容された外国人の子供は、生まれながらにして非正規滞在者扱いとなり、両親とは収容される施設を別にされるケースすらあること。
難民は、帰る事を拒んでいる送還忌避者ではなく、紛争などの理由で「祖国に帰れば命に危険が及ぶ帰れない人たち」であるということ。
難民は、難民に対する受け入れ態勢や福祉が整った他国を選ばなかったのではなく、「選べなかった」ということ。
命辛々生き延びて、辿り着けたのが日本だった。しかし難民認定率が1%にも満たないこの国で、いつ終わるかも分からない収容を耐え続け、20年もの時を施設の中で待ち続けている人がいるということ。
そんな無期限収容に対する唯一の抗議活動としてハンガーストライキが各入管施設で広まっており、中には餓死をしてしまう人がいること、など。

上記は一例に過ぎず、字数の関係から全てを書くことは出来ないが、少しでも関心が沸いた人はどうぞ劇場へ足を運んでみてほしい。

劇場後はトーマス監督が登壇し、作品に対する想いを簡潔に述べてくれた。

「この作品自体に、自分のいかなる政治的イデオロギーを示す意図はありません。全体の構成を見て、僕が収容者側をひいきしているのではないか、という人たちがいますが、彼らは入管よりずっと弱い立場に置かれている。満遍なく全てを作品に収めようとすると、そんな彼らの声をカットしなくてはならないかもしれないし、それは僕はしたくない。僕はこの作品を撮りたいから撮ったのではなくて、知ってしまった以上、撮らなくてはならないと思った。そして、今も分からないことがとても多い。でも、その「分からない」を共有して知ってもらえる事が大きな一歩だと思っています。皆さんの中に疑問が芽生えたら、あとは自分で調べていくしかないんです。そして外国人として僕に出来ることはこれくらいですが、皆さんは日本人として出来る事がある。投票をお願いします。」

シングルのライダースと、バズカットが最高にきまっていた。

彼の姿に、日本文学研究の一任者であるドナルド・キーン氏を不意に重ねた。
日本を愛しすぎるがあまり、日本国籍を取得し、最後は東京の自宅で息を引き取った。
ある分野では当然日本人以上に日本を理解していた彼にして言わしめたとある言葉があり、初めて見た時から頭を離れない。

「私が懸念しているのは、日本人は私がいかに日本を愛しているかを語った時にしか耳を傾けてくれない、ということだ」

鎖国に代表される日本の排斥主義的な性質は、日本がいかに特殊でユニークかという点を保存し、継続的に増強するという意味では大いに役立った。しかしながら、外国人に対する人権意識を促進する上では乗り越えなければならない大きな阻害要因として立ちはだかっており、国際社会における競争力にも当然響く。

批判的検討を受け入れ、集団的ナルシズムから抜け出すことは差し迫った課題の一つなのかもしれない。


夜半 -流-

好きな本と読み返す本のほかに印象に残る本というものがある。
知ることができてよかったと思う情報を与えてくれた本だ。
学生時代に読んだ垣根涼介氏の小説ワイルド・ソウルもそのひとつ。

ワイルド・ソウルは国策によってブラジルに移住した移民が日本政府に復讐する物語。

きっかけとなる舞台は、終戦後の貧困にあえぐ日本。政府は国民を南米に移住させる移民政策を推進した。募集要項には「楽園」「整備済み」「肥沃な土地」「無償提供」など魅力的な言葉がならび、多くの人が安住の地を求めて海を渡っていった。

しかし現地で彼らを待っていたのは、農業どころか生存すら難しい酸性の荒地、未開のジャングルだった。

入植後の政府のサポートは一切なく、連れてこられた道を自力で戻ることもできない。主人公は地球の真裏で想像を絶する地獄の日々を過ごすことになる。

一緒に移住した嫁や子ども、仲間はジャングルの中で赤痢、マラリア、黄熱病によって次々に死んでいった。ついに独りになった主人公は、何年もかけて命からがら大都市サンパウロに流れ着く。

奇跡的に命を繋ぎ止めたが、騙される形で未開の地に放り出された不条理と家族や仲間の死を忘れる日はなかった。そして彼は生き延びた移民たちと共に日本政府への復讐に向けて動き出す。

設定が暗く重いとはいえ、エンタメとしてのレベルが高くひと息に読み終えた。また、脇役たちの個性がはっきりしていて魅力的だったのも良い。

南米のマフィアの親分ドン・バルガスもそのひとりで、移民の子どもに彼が語ったことが印象的に残っている。

「世の中には、二種類の人間しかいない。分かっていない人間と、分かっている人間。目に見えている世界の表層だけをなぞる人間と、その表層の集合体から本質を見極めようとする人間だ。表層だけをなぞる人間でも、世間並みの成功は収めることができる。事象のみを捉え、その対処法を経験値として蓄積してゆく。そして、その経験値を元に未来に対処してゆく。少し聡い人間なら誰でもやっていることだ。だが、あくまでも意識はその表層レベルにいる。いわば処世術にすぎない。それでは本当に分かっているとはいえない。住む世界や国が変わり、就く仕事が変われば、それまでの話だ。以前の対処法は通用しない。が、その表層の集合体から物事の理(ことわり)を導こうとするものは、違う世界でも生き残ってゆく」

マフィアのこの言葉だけではなく、小説全体がハードボイルドな文体でまとめられている。日本とブラジル、過去と現在をまたぐ大胆な構成とテンポの良さが光る長編小説だった。

さて、小説の舞台設定をなぜこんなにも長々と書いたのか。

実はこの作品はフィクションだが、物語の根幹をなす移民政策はなんと実話である。現にドミニカ移民たちは、2000年に国を相手に31億円の損害賠償を求める訴訟を起こしている。

これに対し国は移民政策は国策で行なったのではなく、ただ斡旋しただけだと説明。当時、日本海外協会連合会(現・国際協力機構JICA)が中心に手続きを行っており、配分地が募集内容と明らかに違った点については、受け入れ側の問題であり責任はないとしている。

このような背景から戦後移民の彼らは移民ではなく、すてられた民と書いて「棄民」と呼ばれている。一方、世界各国へ移住していった人々が経済的な成功を収めている事実もあり、あくまで自己責任であるという見解もあるようだ。

個人的には少なくとも募集要項と現実に大きな乖離があったのは事実であるし、成功者もいるという主張は問題の本質から逸れていると思う。

過去の政府の政策を絶対悪とし断罪したいわけではなく、取り扱った本意とも異なるので善悪や責任のありかについてはこれ以上の言及はさけるが、大事なことは生まれ育った国にそんな時代と構造と痛みの歴史があったという事実である。そして、それをどのように扱うかが鍵だと思っている。

もし仮に移民の主張する事実がなかったとするのであれば、国は徹底的に調査して歴史にきちんと書き加えるべきだ。逆にそれがあったのであれば、恥ずべき過ちとして認め、伝えていかなければならない。

痛みの歴史がうやむやにされ、不都合な真実はまるでなかったことのように風化させられることが一番の問題だと感じている。棄民問題だけではなく、我が国のいくつもの歴史についても同じ事が言えるだろう。

決して過去のことを掘り起こして問題を大きくしたいわけではない。過去に留まって未来をみていないわけでもない。

しかし、どこから来てどこへいくのかということは国家にとっても人間にとっても生きていくうえで非常に重要な命題ではないだろうか。忘れがちだが僕たちは連綿と続く歴史のただの一点であり、彼らがいなければ今はない。未来もない。

痛みの歴史を見つめ伝え残すことは、繋がりの中で生きるということであり、生存の難易度低下と便利さによって自己のことだけで目がくらみがちな現代にとって大切な気づきのきっかけになる。

その気づきを持った一人ひとりの感覚が今日を創り明日を創る。その意味においては、歴史は未来そのものだと思う。

そしてその繋がり中で生きている感覚を持っていれば、他国の痛みや現在進行形の自国の痛みにも少し敏感になりはしないだろうか。

牛久のこと。
ウクライナのこと。
ウイグルやチェチェン、チベットでおこなわれてきたこと。
アメリカが日本、そして中東に対して行った行為はどういう意味を持つのか。
おじい、おばあが生きた時代。

こういったことを回答用紙に書くための個別の歴史で終わらせず、すべてひとつの繋がり中で考えられているかということは常に自戒を込めて問いたい。また、情報が氾濫する世の中にあって難しさは否めないが、ドン・バルガスのいうように表層の集合体から本質を見極めようとする態度を持って世界と対峙したい。

だれしも生活から離れたところの小難しい話や過ぎてしまった出来事と対峙することは避けてしまいがちだ。負のエネルギーだって取り込みたくないし、分からないことには関わりたくない。

しかし、悲しみや痛みに真摯に向き合い、さらにその奥に潜む構造や思想、時代背景に少しでも目を見開くことができれば、そこで培われた優しいその眼差しは国境や人種、時代を超えていくことだろう。


そしてそのきっかけになり得る情報を私のような読みづらい文体と文章で書くのではなく、誰もが楽しめるエンタメに昇華したワイルド・ソウルはやはり印象に残る本だ。


東雲 -玉-

ある夏の朝、部屋の隅に目をやると、ドラセナが半分枯れていた。

友人から贈ってもらったその観葉植物は、どうぶつの森の世界では「幸福の木」として崇められており、調べてみると現実世界でもそう呼ばれていた。枯れた原因は僕の過剰な水やりで、本来乾燥に強いドラセナにドリンクバーの勢いで水をやり続けたことは、体育会系の洗礼といっても差し支えない悪行だった。

神よ。塩梅が難しすぎませんか。

陽が当たるようベランダに移した幸福の木の前に跪いた僕は、胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。

花が枯れそうなとき。水やりが必要なものと、土壌から変えるべきものがある。そして、これは単なる二項対立ではなく、水やりをしながら、同時に土壌の研究を重ねて根本の解決を図らなければならない、ということだ。

水やりについては、養老孟司も同じようなことを言っている。

山は都市と対比されることで、自然の恵みを与えてくれる存在として語られるが、いちど人間が手をつけて(伐採などをして)しまった山は、もはや人間が「手入れ」を施さないと持続しない、というような話である。

これは、本連文の薄暮で成が語っていることの一部と関係する。つまり、誰かが苦しんでいる状態を知ったとき、しかも間接的に自分も関わってしまっていると知りながら、放置するべきではないという倫理観である。

そして、これは多くの人々にとって共感できる感覚だと思われる。成が言うように、「人を信じることを諦めていない」人々は、この極めて真っ当な倫理観を支持するだろうし、僕も心から共鳴している。

と、同時に、胸がモヤモヤする感覚がないでもない。それを完璧に言語化することは難しいが、平たく言えば、

「実際の生活で忙しい人々にとって、そこまでの配慮が実質的に可能なのか」 「世界の抱える問題があまりに多すぎて、怒りや悲しみをいちいち行動に繋げることが可能なのか」
「そもそも何でこんなこと起きちゃうの?」

という不安のようなものである。

特にツイッターで社会問題などに触れていると、次々と生まれる目も当てられないような事件や、それに関して飛び交う人々の意見の愚かさに参ってしまい、「とにかく世界はたいへんだ、マジで終わりだ」という諦念と厭世観のみが沈澱していく。

倫理的には正しい。それだけは確かだが、疲弊した精神と肉体ではそれ以上の身動きが取れずに、ジョウロを持ったまま金縛りに遭っている人も多いのではないだろうか。

最近、千葉雅也氏の『現代思想入門』を読んだ。

僕みたいな素人にもやさしくて、現代美術、現代音楽、のような言葉とともに難解で取っつきづらいイメージを抱かれるこの分野について、とかく玄関口から中を覗いてもらえるように、という工夫と配慮に満ちた文章だった。

少なくとも前半部のデリダ、ドゥルーズ、フーコーという哲学の諸先輩を紹介する一連の流れは、世界をどう捉えるべきかという示唆に富むテーマを、はっきりと生活者のレベルに落とし込んでいる。と思う。

そして、この体験は、土壌の歴史を知ることであった。

つまり、そもそも何故このようなことが起き、そして解決もされないままここまで来ているのか。ということについて、人間の思想を掘り起こして、土質を確かめるように手で触れてみる思考の農業体験なのである。

本連文の夜半で流が語っていることの重要性は、ここにあると思う。「歴史は未来そのもの」という言葉は、収穫のためには土壌を知ることから、という農業的な発想に通じる。そしてこれは、水やりと同じくらい大切な体験なのである。

著者が「入門の入門」と自称する本を、専門家でもない僕がかいつまんで紹介することの危険性も承知しているが、興味のある人はきっとこの本を読んでくれると信じて、グッときた部分をふたつ紹介したい。

一つめは、著者が何度も繰り返す「仮固定」という言葉である。これは、ドゥルーズの「あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である」という考え方、「一見バラバラに存在しているものでも実は背後では見えない糸によって絡み合っている」という世界観からなるものである。

つまり、世界には不変のAとBがあって、それらはこのように関係していると断言することは難しい。どちらかといえば、AもBも少しずつ変化しながら、見えないところで意外な関係を結んでいる可能性がある、という考え方だ。

これは仏教的とも言えて、縁や輪廻ともつながるように思える。そうすると、例えばウィシュマ氏のような人が、自分にとっては助けなければならない存在だが、それは今そうであるだけで、いつか自分が同じ立場に置かれる可能性が十分にあるとも考えられる。そして、長期的に見て構造を変えようとする努力が、未来の被害者を生まない結果に結びつくとも言える。

もちろんこの説教のような文章を読んで、ではやはり入管はじめ世界の諸問題を解決しなくては、と立ち上がる人はほとんど皆無だろう。しかしそれでも、いつか金縛りを解いてそのジョウロを傾ける些細なきっかけになる可能性がある。何故なら、ひとは世界の捉え方について、少なからず興味を持っているはずだからである。

二つめは、「泳がせておく」という言葉である。これは、フーコーの権力論について説明する中で登場する表現だが、要は、よく分からないものを整理しすぎずに、そのままにしておく余裕のことを表している。

つまり、人間はあらゆるものを整理しておきたいという性質を持つ(特に近代以降)が、整理することがいかに権力者の価値観に沿っており、社会秩序を保つようでいて常にマイノリティの価値観を軽んじているか、というような問題がある。

それを解決するためには、「なんか個性的」で済みそうなものはそのまま泳がせておくくらいが、社会的な平等という大義を実現するにはちょうどいいのではないか。という考え方である。

僕は公園の立て看板を思い出した。ボール遊びも大声も禁止された公園で、子どもは何をして遊べばいいというのか。それでも遊び方を捻り出すのが彼らの魅力ではあるが、その手段の一つとして、バレるまでボールで遊んでしまうという手がある。

それを発見してしまったとき、看板を根拠に注意するのではなく、「見てるね」と子どもたちに独特の緊張感を与えながら見過ごすか、「コラ!」の一発で済ませてしまうような余裕、持っていたいと思う。

そして僕が深夜の路地裏で、ついつい歩きタバコをしながら偶然誰かとすれ違うとき、一応煙がいかないよう工夫するのに免じて、一瞬息を止める程度で済ませてもらえたりしないだろうか。

もちろん、これは秩序から外れることを全肯定するものではなく、当事者同士の絶え間ない調整が必要なことではあると思う。千葉氏もしばしばその難しさについて寄り添いながら、ケース・バイ・ケースであると繰り返す。

しかし、僕はこれを読んで、たいへんリラックスすることができた。自分を「泳がせておく」という考え方もできるからである。

世界の抱える諸問題について、その全てに今すぐ取り組むことを想像すると、ひとは金縛りに遭う。しかし、ある一点以外はいったん放置してもいいとしたらどうだろうか。映画や本を読んで、すぐに感想を言わなくていい。具体的な行動を、信念を持って取り組まなくてもいい。

そうして、何か世界を変えるために自分も動かなくては、という焦りを、いったんリラックスさせてしまうのはどうだろう。そしてそんな自堕落、無責任、と他者から言われそうな自分を「泳がせておく」。そのとき、むしろひとは一歩目を踏み出しやすくなるのではないだろうか。

問題に対して無関心に過ごすこともできる自分は、不変のキャラクターではなく、同時にいつでも関心を持つ自分に変化できるということだ。

そして何より、放置してはいけないある一点というのは、自分を気遣うことである。

その先に、他者への気遣いがある。忙しい生活を送る中で、誰かの心配をすることは、これはもう技術であると言って差し支えないだろう。しかし、技術である以上、それを習得することは可能のはずである。

情報過多の世界で、いちいち怒ったり悲しんだりしても、実際に問題が解決することはない。かと言って、それらを無視することは、世界に対して薄情である。この当たり前の(であって欲しい)バランス感覚は、どのようにすれば全ての人に定着するのか。その一部を、『現代思想入門』は教えてくれるのである。

ある冬の朝、ベランダに出ると、ドラセナが完全に枯れていた。

枯れた原因は寒さで、本来冷気に弱いドラセナを冷蔵庫並みに冷たい野外で育て続けたことは、シンプルに愚行だった。

神よ。僕はしばらく植物を買うのやめます。


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