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「フェミニストとして書く」ということと「書く」ということ

私は現在、朝日新聞社運営のWEBサイト「かがみよかがみ」でエッセイを書かせていただいている。

先日、かがみよかがみ内に投稿された「フェミニズム」関連のとあるエッセイがSNS上で炎上した。その炎上が起きるまで正直言って私は、かがみよかがみの方針や運営について疑問を抱いたことは"ほぼ"なかった。

炎上後、SNS上ではさまざまな議論や批判があり外部の人だけではなく、かがみよかがみでエッセイを書いているいわば内部の人達もサイトの現状について様々な声をあげていた。私はそれらの問題について瞬発的に自身の考えをまとめる器量と余裕がなかった。また、炎上後の編集部の対応を見る限り、考えを述べるのであればTwitterではなくnoteが最適であると考えたので、ここにまとめたいと思う。

※このnoteは私個人の見解であり、団体や団体に属する個人を誹謗・中傷する意図は一切ございません。

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今から約一年前、私は当時エッセイが書きたくて書きたくて仕方がなかった。精神上の理由で声が一定期間出せなくなっており、自分の想いを効率的に人に伝える媒体として、病状を緩和させる薬として、「書く」ということを頼っていたからである。

そのころ18歳になったばかりの私が自身の想いをのびのびと書ける場というのは、とても少なかった。大学や企業が高校生の為に開催する「エッセイコンテスト」のようなものは、進学の武器にはなるけれど。

自身の体験を文学として点数をつけて評価されることや、社会の発展に利用されることを私は求めていなかった。だから、「かがみよかがみ」をTwitter上で見たときには「発掘した」と思った。その頃のかがみよかがみはまだスタートしたばかりで公式アカウントのフォロワー数も少なく、まるでビル街の中にひっそりと佇む隠れ家カフェを見つけたかのような感覚だった。エッセイの投稿フォームには

自分の思いや考えをメディア等で発表していくのは、はじめてという方も「私のコンプレックスを、私のアドバンテージにする」というサイトコンセプトに沿った内容であれば、投稿いただけます。 (引用:伊藤編集長からのメッセージ)

と書いてある。入りづらそうと見せかけて、入口が結構広い。その上、運営は朝日新聞。めっちゃ心強いやん、と思い、その勢いのまま投稿を始めた。

投稿を初めて約9か月、かがみよかがみの形は私が書き始めた当初と比べて大きく変わった。

まず、新規投稿者が格段に増えた。それに伴い、「ライター」として普段文筆を仕事としている人がエッセイを投稿する場合と、「投稿者」として一般の人がエッセイを投稿する場合の、内容の差も広がりつつある(文章表現の上手下手はもちろんあるけれどそれ以上に、かがみよかがみというサイトをどのように利用するのか、という心持ちの差)。

そしてエッセイの内容は、フェミニズム関連のものが多くなった。

人の性や考え方は多様で、グラデーションであると私は考える。フェミニズムがひとつの"ブーム"となりつつある最近("ブーム"ではなく、学問的なものとして広く正しく普及してほしいと祈るが)、現在のかがみよかがみでフェミニズム関連のエッセイがたくさん公開されるのは必然だと思う。

しかし、(批判では無くひとつの疑問として)ここに書いておきたいのは、当初の「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」というコンセプトより「フェミニズム」というコンセプトが前面に出つつあるのではないか、ということである。

少し話は逸れるが数か月前から、「お前の作る短歌や詩はフェミニストとしてどうなのか」というご指摘をDM上でいただいくことが時々ある。私は短編小説をnoteに、短歌をTwitter上に載せていて、それらの表現内容に関しての批判である。

DMで批判の声を寄せて下さる方々はみな、私がかがみよかがみでエッセイを投稿していることを知っており、過去の炎上した記事や企画などから「かがみよかがみ=フェミニストの集い」という風に解釈していたそうだ。

※「エッセイはノンフィクションで短歌や小説などの文学作品はフィクション」だという前提はあるが、それらを混合させる人も一定数いるということを考慮出来ていなかったこと、また投稿者という立場であったにせよ自身の属するWEBサイトが炎上した時期に性愛を詠んだ短歌をSNS上に載せることは、自身の判断が甘かったと反省している。

私は現在、一人のフェミニストとしてどのような内容の記事を書く際も、フェミニズムの観点で最新の注意を払っている。これはかがみよかがみに属しているからというわけではなくて、第三者が閲覧できる媒体で文章を書く際の基本的なマナーとして、守るべきことを守っているだけである。

仮に、今後もっと大きなフェミニズムブームが日本に到来した場合(それ自体は大変嬉しいことではあるが)、かがみよかがみのエッセイや企画がフェミニズム一色となった場合、その他の「コンプレックス」を書きたい人は一体どこで書けばいいのだろう。外部からは守られたとしても、内部での隔たりは生まれないのだろうか。

入口が広く、かつルールも少ない。だからこそ、制御不能になる危険性もあるのではないかと思う。「傷の舐め合い」と嘲笑されるということは、今まで独りで傷を抱えて悪化し化膿させていくだけだった人がこのサイトで「自分は一人ではない」と気づいて同じく傷ついた人を癒そうとしているということ。決して「共感」は悪ではないし、投稿者全員が「共感してもらいたいだけ」でエッセイを書いてはいない。かがみよかがみは入口が広いからこそ、20代を中心(けれど投稿は10代も可能という希少なサイト)としているからこそ、私は「深める」より「広げる」場所になってほしいなと思っている。

かがみよかがみ内に「フェミニズム」についての別枠をきちんと設けるとか、かがみよかがみと同等かそれ以上に安心性と信頼性がある、フェミニズム関連の記事が投稿できるサイトがあればいいのに、と思ったりもする。「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」というコンセプトで発足したからには、そのコンセプトが公式的に変更にならない限りは、私はかがみよかがみではそのコンセプトを第一にしたエッセイを投稿し続ける。




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