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心には触れない

朝一で京都みなみ会館へ。『草の響き』を観に行ってきた。

走る、走る、走る。次々と後方へ退いていく函館の風景。走ることで、浄化するようでもあり、自身の中の孤独へ突き進むかのようでもある。

ただひたすらに走り続ける和雄と、スケボーで駆け巡る彰、それぞれの姿と函館の風景、その美しさだけでも観る価値があった。

東出昌大の演じる姿は、ただひたすらに正直さだけが全面に出ていて、上手い下手ではなく、正直であるという演じ方があるのだなぁと思って観ていた。そして個人的には、奈緒の演じる純子にとても感情移入しておろおろと泣き続けながら観たのだった。

強くあらねばならない、自分はそういう立場なのだと思い続けること。純子も、わたしだっておかしくなりたいと何度も思ったのではないか、とぐらんぐらんとした気持ちになった。本当に大事なことはいつも遠くて、どうしたって人の心には触れない。

原作が読みたくなり、というか佐藤泰志はずっと気になっていたのに手を出せずにいたので、これを気に読みたい。草の響きも入っている『きみの鳥はうたえる』と、遺作となった『海炭市叙景』を手元に置いた。

昼からは、思い立って三十三間堂へ。
建物の迫力に、圧巻の1001体の観音さまを前に、ぅおおと唸りながら、観音さまの表情のちがいを興奮しながら観てまわった。旧約聖書の神と比べて、仏教は偶像崇拝ここに極まれりだな…などと考えながら。

750年も保存されている観音像は、手がけた職人が様々なので、顔の表情も1001体分ちがう。その中から、今会いたい人の顔を見つけられると言われているらしい。
しかし、わたしの目を通すと、あの人に似ている!となるのはどれも、漫画のキャラクターばかりであった。

命をかけて24時間矢を放ち続ける、通し矢大会の歴史もおもしろく、普段、自社仏閣や美術館に連れていってもイマイチ腑に落ちていない態度のぴー太も、三十三間堂はおもしろかったと喜んでいた。美術への新しい扉を開けたのだったら、いいなぁ。

庭園も美しい。上から見ると星屑のような馬杉苔や、格子の向こうの野良猫、枝垂れ柳越しに見える、御堂の上にたたずむ鴉は異界の生き物のような存在感で、飛び立っていく瞬間、ばさりばさりとわたしの頭の上を旋回していった。


吉田篤弘さんの言葉を借りるなら、

いにしえの時間がそのままそこに残されているのがまざまざと感じられる。それも、車の行き交う大通りからほんの数分で「いにしえ」に参入できるのだから、タイムマシーンでワープするのと感覚としてはきっと同じだ。
ー京都で考えた より

なのだった。

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