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【短編】ホスタ

霧雨の音を聞いていた。
心に繁るドクダミソウを踏み締めて、緑の荒野をたった一人で歩いていく。
足下からはじゅくじゅくと湿った靴下の声が鳴り続け、冷えた足先が温もりを求めて悲鳴を上げている。

ああ、まただ。

私はそんな風に思いながら、ライトグレーに染まった空を見上げては、湿った空気と僅かばかりの水滴を吸い込んだ。

あの曇天は空の裏側。
薄くモヤモヤとした裏蓋をひっくり返せれば、きっとそこには晴天があるのだろう。
しかし私の腕は斯くも短く、両手をぴったり合わせてみたところで、グレープフルーツさえ包み隠す事が出来ない。
斯くも小さき私の腕よ、その手で何を掴むと言うのか。
頬を撫でていく微かなの雨粒が、ちくちく刺さる感じがした。

森を抜ける獣道を行く。
通い慣れたこの道で、出会わぬものは何も無い。
薄暗がりも陽光も、獣やよそ者、そこにはいない誰かの残滓。すべてすべて、出会った事があるものだった。
だから私の目の前から見知らぬ人が歩いて来ても、私は特に驚かなかった。彼は鼠色の雨具を着込み、慣れない足取りでよちよち歩く。
私は彼に構う事なく歩き続けるが、彼は怪訝な瞳で私を捉えている。
両目の中に「why」を浮かべ、「who」より先に「where」が滲む。
彼もまた、退屈な人なのだ。
冷たい春雨が煙る森の中を奥へ奥へと進んでいく私を、彼はじっと睨みつけていた。
だから私はこうやって、薄情者がそうするように、口元だけの笑みを作ってみせた。彼のカラーは深い色に染まり、私は少しだけ気分が良くなった。
それでもまだ、私の心は晴れにならない。

新緑と雨粒が織りなすホワイトノイズの中で、私は歩く。歩き続ける。
やがて空間がぱっと開け、広い森の中にぽっかりと穿たれたような、狭い空間に辿り着いた。
そこには一軒、古ぼけた家が立つばかりで、他には何も、何も無かった。
おかしなものだと私は思う。
誰が好き好んで斯様な場所に家を建てるのか、そしてどんな人間がこんな場所に住もうと思うのか、と。

私は迷わず玄関までの道のりを歩き、キンと冷えたドアノブに手をかける。キュッという錆びついた音を響かせながら、ドアは手前に開いていった。
室内は当然薄暗く、水気を纏った埃っぽさがスッと鼻の奥へ抜けていく。
私は一歩、もう一歩と足を踏み入れ、床の具合を確かめながらも、更にもう一歩踏み締める。
ギィ、ギィ。
軋む音が踵を揺らす。それでも足は、止まる事を忘れている。
ギィ、ギィ。
ギィ、ギィ。
弾けるような音がした。繊細な部分に踏み込まれたこの家が、まるで驚いているようだった。
ギィ、ギィ。
ギィ、ギィ。
限りなく黒に近い茶色の廊下を抜けて、扉の空いた部屋へと入る。

部屋は明るい。いいや、雨雲越しの日光が幾ばくかの明かりを届けているだけで、その部屋は窓の大きさに比してやや薄暗かった。
それでも、今通り抜けて来た暗闇に比べれば十分に明るく、雨風が当たらないという意味では十二分に家の役目を果たしている。
私はおもむろに上着を脱ぎ捨て、備え付けの暖炉に薪を並べた。近くにあった新聞紙を放り込み、マッチは無いかと目を走らせた。
しかし何処を探してもマッチは見つからず、しんとした室内に自分の息遣いだけが響いている。

またか。

ひとつ大きなため息をつき、火種の無い暖炉に背を向けて脱ぎ捨てた上着を拾い上げる。
内ポケットからタバコを取り出し、ひとつ咥えると、私の手の中にはマッチが握られていた。

また、ため息をひとつ。

赤い頭がヤスリの滑走路を駆け抜けて、橙色の炎がぱっと花開いた。タバコの先がジリジリと音を立てて赤く染まり、役目を終えた小枝を暖炉の中に投げ捨てる。
クシャクシャに丸められた新聞紙の上で跳ね落ちたマッチは瞬く間に大きな炎に飲まれ、周囲の小枝を巻き込んでぐるぐるとした火焔を上げて踊り狂う。
私はその一部始終を眺めながら、紫色の煙をあげる煙突の真似事をしてみた。

外の景色は灰色で、赤く燃え盛る炎だけが、世界に色を与えていた。


窓の側には一脚の椅子が置かれている。
窓に対して斜に構えたそれは、座面が擦れて地肌が見えるほど使い込まれていた。
この家が生まれた頃からいるのだろうか。
風景と溶け込み過ぎていて、まるで家と共に設計されたようにさえ思えた。
私はそれに腰かけ、身体を預け、座り心地を確かめる。悪くない。

私は次に靴を脱いだ。紐を解き、踵を掴んで。
そして次に靴下を脱いだ。濡れてまとわりつくそれは、いつまで経っても離れたくないようだ。

それでも何とかその呪縛を解いて、私は素足になった自分の足をマジマジと見つめる。
水気によって体温を奪われ、真っ白になった自分の足はまるで白魚。いいや屍のようにも見えた。

もしもし、もしもし。

私は両手で足を揉み、彼が生きている事を確かめる。
親指はたしかに動く、しかし小指はどうだろうか。

もしもし、もしもし。

動く。
弱々しくも確かに、そこには血肉の感触がした。
まるで冬山登山だ。私の人生はいつも。

窓の外からしゃらしゃらという音が聞こえる。
風雨はまだ止む気配が無い。

呆けた顔で窓を見つめ、ガラスに滴る水滴を指でなぞり、星座を一つ描いていく。
しかし雨は無情にも星座を掻き乱し、次から次へと新しい星図を提示してきた。
私もムキになって星座を生み出し続けるが、結局、根負けしたのは私の方だ。いつものように。

一体どれくらいそうしていたのだろうか。
いいや、一体いつまでそうしているつもりなのだろうか。
暖炉の薪がパチンと爆ぜる。
それはまるで時の流れが極端に遅い世界の秒針のように、気まぐれなテンポを刻み続けている。

そもそも時とは流れるものなのだろうか。
時が水の如く流れるのなら、過去は高く、未来は低いところにあるのだろうか。
確かに子供の頃は輝いて見えるし、未来への展望は五里霧中だ。
そうなのだとしたら生きるというのは、死という奈落へ向かって滑り落ちる事を指すのであろうか。
幼き日々は濁流の如く迅速で、老いたる日々は大河のようにのろまだとでもいうのか。
生が湧き水であるなら、死とは海であるのだろうか。

不意に頭の中を「死海」という湖が通り過ぎていったが、きっと今の思考には関係ないだろう。
あんな塩化ナトリウム水溶液の水たまり、今の私には関係ない。
だって涙は枯れてしまったのだから。

私は大きく息を吸って、滔々と流れる水の音に、耳を傾けた。

静寂が来る。

それは途方もなく静謐で、同時に凄く、優しかった。
それはまるで写鏡のように、私に向かって現れては問いかける。人生の意味と時の流れの真実を。
それはまるで絶望のように、私の前に立ち塞がる。夜明けの鐘を、待たずに眠る六等星。
それはまるで鋼のように、私の希望を打ち砕く。無慈悲にそして、躊躇無く。
それはまるで光のように、私の孤独を照らし出す。太字で書いた輪郭を、殊更強く映し出す。

私の鼓動。
私の呼吸。
私の中の生きとし生けるもの全て、真白の画角に閉じ込める。


静寂。


それが意味する、刹那の時間。

私の思考は、窓に張り付く水滴の1つに集約された。


雨が、止んでいる。


私は立ち上がり、部屋の外へと駆け出した。
熱く燃える炎を過ぎて、軋む廊下の闇を抜け、私は裸足で、固い扉を開け放った。

外は静かだ。
まるで何事も、何も無かったかのように黙りこくったその世界は、纏った水滴を振り払う事も出来ないままに、じっとこちらを伺っている。

私は足元に咲く白い小花を踏みしめて、前へ前へと歩いていく。
砂利の凹凸も、葉の色も、足の裏から込み上げる。

痛みが生を受け入れる。

やがて何も無い場所へ着いた。
そこはぬかるみ、足を取られる。指の隙間から溢れ出す泥の塊が、私の行く手を阻んで笑う。

そして空には、光がひと筋差していた。

薄曇りの空の隙間から届いた光は、やがて私の虹彩を捉えて、眩いヘイローを生み出した。


私はまだ、歩けるだろうか。


その問いはやはり、私が答えるしか無いのだろう。
だから私はもう一歩、ぬかるむ地面を踏みしめる。
だから私はもう一度、空を見上げてまた笑う。

だから私は。


私はいつしか歩き出していた。
そこにはもう雨は降っていないから。



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