言葉で自分の宇宙を破くこと。
先日、大好きで恩人で憧れで愛くるしい人が、元気がなさそうに見受けられる発信をしていた。
「人生にはいろんなことがあって、その人にはその人のhereがあって、その人なりにその人を生きている」ということを考えても唱えても、自分の心の一部がちょっとそちらにあるような感じがしていた。近くの田んぼを眺めていても、空をあおいでいても、顔が浮かんできた。
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ある本の一説に、こんな文章があった。
もしも人類が常套句を持たなければ、人類に武器は無用になるだろうに。誰しも自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について想いを凝らし始めなければならない。そうすれば、すべての失われたものが蘇るだろう。
私は、この文章がどうにも腑に落ちなかった。この文章を置いたままいろんな本を読んでみたり、他の人の思考を借りたりもしてみたのだけれど、どうしてもストンッとならなかった。
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つい先ほど、元気がなさそうだった大好きな人が、笑いながらチーカマを食べている様子を目にした。彼女は、自分の言葉を恥ずかしがる訳でもなく、自分の信じるものをなんともまぁ生き生きと話していた。
ただそれだけだったのだけれど、それが私は今日の記憶をかっさらってしまうほど微笑ましくて、愛らしくて、駅の改札前で泣いてしまった。彼女が元気そうなことにも安心したけれど、それ以上に彼女が彼女自身の言葉を諦めていない、ということに改めて感動していたのだ。
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我々は、迷い、ためらうことを可能にする言語を贈られているのである。
これもまた、同じ本の一説。
しっくりくるまで言葉を探し、選ぶ。それこそが、私たちに言葉が贈られているという意味そのものなのだ、と。
この断定こそが、贈り物であり、とてつもない救いとなって私と私の言葉を包んでくれた。
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私にとって言葉とは何か。
それは、自分の中に拡がる宇宙から外の世界に破け出す自分の「感覚」を「つつむ」ものである。
なぜ言葉を使うのか。
「生きている」ということは、常に破け出し、滲みあい、漂い、さまよい、それでも自分の中から今この瞬間も芽吹く可能性をじゅうぶんに孕んでいる種のようなものを信じ、積極的に破けさせるという現象そのものなのではないかと思う。
そして、言葉は自分の種を信じ、不完全でへなちょこで弱っちい種を外に破けさせる「意志」そのものによって初めて存在が成り立つものなのではないか、と思った。
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先述した文章(自分の言葉を聴き、根源に想いをこらすことで戦争から遠ざかる)は、そういうことを言いたかったのではないか、と思ったのだ。
つまり、この文章が本当に伝えたいこととは、込められている願いとは、
私たち一人ひとりには、争い戦うための種ではなく、不完全さを愛し、楽しみ、不思議がり、その存在自体に常に新鮮さと懐かしさを漂わせるような、そんななんともチャーミングな”種”が存在しているのではないか。
ということなのだと。
そしてそして、もう少し論を重ねてみると、
その”種”を愛する力が自分に存在しているということに、他者と関わり合うことによって初めて気がつく。そう、私がチーカマを食べる彼女を見て気がついたように。
それこそが、どんなに不完全でもどんなに不恰好でも、自分の言葉で語る(自分の内に拡がる宇宙を外に破けさせる)ということの、大きな大きな喜びであり、理由であり、私たちが持っている粘り強さなのではないかと思うのだ。
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「それでも明日が来る」ということを、祈ることができるように生きてゆきたい。
これはついさっき言語化できた自分の人生への価値観なのだけれど、それに”言葉”という要素を含ませるとしたら。
私は、どんなにへなちょこでも言葉で世界と関わっていきたい。言葉で他者と関わることから逃げたくない。言葉で自分の宇宙を破くことを愛していきたい。
それが、私にとっての明日への祈りなのだ。
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