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「揺らがないもの」への憧れと呪い【双極性Ⅱ型寛解の為にやったこと記録11】

こんにちは、またちょっとお久しぶりのたまです。
5月の前半に、4月末までの(自分の人生の中では)激務を乗り切れたことで、やったやったよーという記事を2本書きましたが、実はその後5月の終わりまで揺り戻しというか、気力切れみたいな状態に陥っていました。

とはいえそれは当たり前のことで、その前まで明らかに自分でも気力の前借りをして働いているという自覚があったので、当たり前だよね〜
と思いながら、仕事のペースなどを調整してもらいつつなんとか日常生活を送っていました。

今回はその時に考えたことについて書きます。それは

自分はなぜ疲れると落ち込むのか?

という話です。

疲れる→???→気分が落ち込む

精神的な慢性病を抱えて生きてきた人はわかってもらえると思うんですが、疲れると精神的にも沈んできて、病状が悪化しますよね。そこって不可分ですよね。

でも改めて考えてみると、「疲れる=精神的に落ち込む」は本来イコールの関係ではないのではないでしょうか。

確かに普通の人でも疲れが溜まるとイライラしがちになったりはしますが、疲れたらただ寝てしまう、何もしなくなったり好きなことしかしなくなる、でも良いはずで、程度はあれ、そういう対処でなんとかなってる人が多い気がする。
それなのに、私は疲れたら気分が悪くなる。

そのことを疑問に思ったというより、ある日マインドフルネスをしている時にハタと
「自分は自分が疲れたということを認めたくないのではないか」
という仮説が脳内に湧いてきました。

なぜ疲れたことを認められないと落ち込むのか

私は基本的に肉体精神問わず病気の症状というものは、「死」を回避するための身体からのフィードバックだと捉えています。
例えばお腹が痛い時はお腹を痛めている原因が治るまで安静にしろという合図であって、そこで痛み止めを飲んで動くことは身体の意図に逆らって死に近付く行為であるという考え方です。

その発想で鬱状態を解釈すると、これは何かの脳科学の本で読んだ仮説ですが、「鬱状態とは自分にはどうにも出来ないストレス状況の中で『動かない』という最善の行動を取るためにある」ということになります。

つまり、原始的な生活の中で例えば、

いつ終わるかもわからない悪天候の中で、あえて外に食料を探しにいった個体よりも、動かずにじっとしていた(=そういう状態で動けない精神状態になった)個体の方が多く生き残った

だから、人間にとって「鬱になれる」というのは必要な特性であるという仮説です。
(ただし社会というものが人間にとっても複雑化しすぎて、ストレスの原因や問題が「動かないだけで」解決できることが殆どなくなってしまったのが鬱病の問題ではあることは間違い無い)

その仮説を踏まえて、思うに私が疲れると落ち込んでしまうのは、
自分が疲れても疲れたことを認めないで活動し続けようとするから、身体が自分を守るために脳を強制的に鬱状態に落として活動を止めるしか無いから
なんじゃないかと今は考えています。
うつ状態とは、自分が死なないように、身体(脳も臓器ですから身体側)から殴ってでも止めて休ませようとしてる状態っつーことですね。

まぁこれは自分の中で成り立つ理屈でしか無いのですが、そう思って「疲れたら休むから、気分が悪くなる必要は無いんだ」と思って毎日を過ごすと、今までより気分の落ち込みがコントロールできるようになってきた気がします。

なぜ今まで疲れを認められなかったのか

じゃあなんでこんなんなっちゃったのよ、というと
前回の記事でも書いたように自分は圧倒的に自分の体や精神の実情と相談して身のフリを決めるのが下手だったというか、まず自分の中で「理想的な状態」があってそれ以外は認めないという考え方の傾向があったと思います。

そしてそれに10代のうちに『双極性障害』という名前がつくことで、より「自分が理想に近づけない理由はこの気分の落ち込みや疲れやすさを引き起こす病気にある」という意識が強くなったのではないかなと思います。

そもそも、その神経症的な性格から疲れやすくなっているのに、その性格が自分の疲れやすさを認めない、というダブルバインドに陥っていました。

だから私は、自分はそうはなれないと半ば認めつつ、いつもエネルギッシュでストイックで、常に気分や考え方にブレのなさそうに見える人が好きで、そういう人の追っかけをしたりしていましたw

それ自体は自分にとって物凄く救いになったので否定したくは無いのですが、そういう理想を追うことで、余計に「均質で揺るぎないもの」への憧れや執着が強くなっていたのでは無いかなと今では少し思います。

そしてもう一つ、
今書きながら考えていて思い出したのですが、双極性障害を発症する前から自分はオタクで何かにハマった時に、そのジャンルに飽きることをとても恐れていました。
自分自身は飽きっぽい方にも関わらず。

正直今考えてみるとなぜそんなことを恐れていたのか…と思ってしまいますが、なんとなく思い返してみて「何かに夢中になっている自分こそが理想の自分で、そうでなくなることを恐れていたからではないか」という感じがします。

だから飽きること、疲れてやめること、離れること、そうなる自分を認めたくなかった。ずーーーっとおんなじものを好きで、同じように考えて生きていく生き物になりたかった。

今、寛解して分かってきたこと

これは最近、ついに本当の意味で「休むこと」が出来るようになったことで実感として分かってきたのですが、今まで憧れてきた「ブレない人」というのは、実は多分「ブレるのが上手い人」なんです。

自分の脳内の「理想」ではなく、実際にやっていて夢中になれるか、心の底から面白いと思えるか、の感覚に従う勇気や、そうでなければ投げ出す勇気、
または途中で少し疲れたらパッと離れて、またやる気が出たら戻って来れる
そういう柔軟性の方が、実は努力を継続するために必要なんじゃないかと思うようになってきました。

多分そういう柔軟さと、将来的な利益に対する期待値で上手くバランスが取れる人が、はた目から見ると一番揺るぎなく、自然体で一貫性をもって動いているように見える。

今風に言うと、持続可能性(sustainability)というやつですね。

実際に自分は、少し前まで何か自分で決めた目標や予定を上手くこなせないともう二度と自分の興味も、気力も帰ってこないような気がしていて、本当はやりたくもない作業を続けたりしていました。

そういう切羽詰まったモチベーションである程度ちゃんと動けるのは私の強さでもあるのですが、やはりそれでは体験として辛いし、それ故にそう長くは続かない。

でも今は、別に続かなくても良いのだ、と思えるようになりました。
一歩でも進んだ経験は、例え2歩目が無くても消えてなくなることは無いし、やる気が出たらまた続きを歩めばいい、と心から思えるようになったのです。

この辺は因果関係は鶏と卵ですが、
そう思えたことで初めて本当の意味で休むことが出来るようになったのかもしれません。
休むこと、立ち止まることが自分の中の何かを損なうことは無いのだと気付いたことで、初めて立ち止まる勇気が持てた気がします。

これは結果論ですが、やる気がある時にガガガっと進めたことは、飽きて一度止めても大抵また気持ちが戻ってきます。
飽きてそれっきりでもまぁそれも別に良いじゃんと思いますし。
自分の中の一貫性というものは、そんなに簡単には失われない、ということが分かったので、もう大丈夫という感じがします。

実際疲れてきたらどうする

正直今でも疲れてきたら、気分が落ち込んでくるのを感じます。
本質的にはまだ自分はそれでしか自分の疲れを把握できてないです(多分発達障害の感覚鈍麻が関係してる気がする)

ただ疲れてきたのを察知したら、
あ――――疲れたな~~~~と声に出して言うことにしています笑
それをトリガーに「疲れたからって落ち込む必要はない、休めば疲れは取れるんだから」という風に切り替えて、とりあえず部屋にいたらベッドに寝ころびます。
それで軽く昼寝します。

昼寝する感じのタイミングじゃなければマインドフルネスをやってみたり、身体的に疲れてなければ長めの散歩に出かけたり。
とにかく落ち込んできた感情ではなく、「疲れ」そのものにフォーカスして行動することを心掛けますし、落ち込んだ感情が渦巻いてきたら「疲れが取れれば大丈夫」という考えでその思考の奔流をストップしておきます。

今はまだ、そういう感じで自分の身体とやり取りをしていますが、いつかこの流れが自分の中で定着すれば、もう身体が無理やりうつ状態にして意識の方を止める必要もなくなって、疲れても鬱っぽく自体ならなくなるんじゃないかなぁと期待しています。


 まだまだ長い年月の間に自分にかけた「呪い」があり、それが自分に無理をさせたり気力を奪ったりしているのを感じます。
でも今はそれを解く方法が分かってきて、長期戦ではありますが、立ち向かう術があるということに幸せを感じます。

ただ今は調子が良くてなんだかわかったような気がしてますが、また波が来て分からなくなる可能性も大いにあります。
だからこうやって記録していくことも大事ですね。

ここまでお読みいただきありがとうございました😊

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