見出し画像

自己否定し続けてきた過去の精算【双極性Ⅱ型寛解の為にやったこと記録10】

前回、「忙しいけれどなんとか上手くやれています」という記事を書きました。

それは「寛解したから」無駄に悲観的になったり無力感に囚われず前向きに問題に対処できたから、とも言えますが、実感として「寛解したからもう悲観的にならなくなった」というより「そういう性質に人生を大きく振り回されないでいられている状態を『寛解』と呼んでいる」という方が近い感じがします。

一方で寛解後、双極性2型だった10年の間に培われた根深い無力感や悲観的さが、少しづつ薄らいで来ているのも感じています。

今回はこの辺りの自分のかつての病理の解釈と、今自分なりに確立した、それをコントロールする方法について書いていきたいと思います。
ある意味、自分の双極性2型への対処法の総決算のような記事になるので、少し長くなると思いますが、次の章まで読んで分かる感じがした人はお付き合いいただけると嬉しいです。

また他の自分の多くの記事と違い、かなり自分の感覚的な、時にスピリチュアル寄りの感性も入った内容になるのでその辺はご留意いただければと思います。。

寛解の手がかりとなったアプローチ

早速、「感覚的に」どうやって自分の否定的な感情や無気力の噴出をコントロールできるようになったのかを説明すると、こんな感じです。

自分の心の中に今まで生きてきた全ての段階の自分がいて(小さい子供の頃・中学生・高校生・大学生など)特に素直な小さい子供の自分が泣き喚いたり暴れるとダイレクトに自分の精神状態も一緒に不安定になっていたのが、
その子供の不機嫌を、自分の不調としてではなく「『その子供の』不機嫌に付き合う」というスタンスで向き合う(共感したり慰めたり)するようにしたところ、スッと気持ちを切り替えてやるべきことにやる気を出したり、やる気が出ないことを諦めたりという今の自分との付き合いが上手くできるようになった

まぁ世に言う「インナーチャイルド」の概念に近い話なんだと思います。
ただし個人的には深く調べるほど変な方向(高次元がどうとか)に行きがちなワードなので、ズバリそれですとは言い難い気持ちを持っています笑

かなり前の話なのでソースは紛失してしまったのですが、おそらくこの発想のルーツは、とある若年性多重人格障害の記事で専門医の方が

「もう一人の自分は、本体の自分のストレスを引き受けるために現れた人格なので、責めたり恐れたりせず、心の中で感謝の言葉を掛けてあげることで改善することがある」

というような話をしていたところにある気がします。
何故だか忘れたのですがその頃、もしかしたら離人症や多重人格を含む解離性障害も併発してるのでは…?と疑って色々記事を見ていた中で見つけた記事でした。

それを見た後、試しに自分の解離性を感じた部分に対して感謝するようにしたところ、なんかもにゃっと(?)悪くない感じがしたので、その後もずっと散歩などの時に感謝というか注意を向け続けたところ、上に書いたような「過去の自分」的な存在の輪郭がハッキリとしてきて、今の自分に影響を及ぼしていた過去の問題(親子関係など)を解決して今に至ることができた…という感じです。

と、ここまでボヤボヤっとした観念的な自分の寛解へ至った道を書きましたが、以下からはもう少し具体的な経験を交えた記録を書いていきます。

躁鬱病は自己効力感を奪う病気

今寛解して改めて考える双極性障害の一番恐ろしいところは、気分の上下そのものというよりも、そうやって自分の介在できない力によって自分の思考が変化する経験を繰り返すことにより誰よりも自分が自分を信じられなくなることだと思います。

(自己効力感とは何か問題が起きても対処できるという自信のことで、以前の記事で詳しく書いているのですが、これを養うことが寛解にとって大きなポイントで、逆にこれが失われるのが双極性障害であるとも考えています。)

明日の自分が何を考えているか分からない、
何ができるか分からないから、将来の目標も立てられないし、
それに向かって努力することもできないし、
今日宝物だと思ったものが明日ゴミに変わってるかもしれない、
と思うと趣味すら億劫になりました。

特に後者が私にとって辛かったです。
社会的にやらなきゃ行けないことは辛くてもやるしかないですが、それまで趣味に生きていた、生かされていたと感じていたので、その根幹である自分の中の必要性、好きな感情が揺らぐと趣味はもう全く価値を失ってしまうから。

そうやって、病気自体の辛さ(憂鬱感)を積み重ねていき、次第に「自分が自分をコントロールできていた頃」を忘れていった先に、途方もない無力感と自己不信という一番恐ろしい症状が現れるのです。

自分への無力感・不信感というのは恐ろしいもので、それが和らいだ今、真に自分を疲れさせていたのは双極性障害そのものより不信感の方だったのではないかと感じています。
つまり、

  • 今すべきことができてないから常に将来が不安

  • 本当に今すぐやらなきゃいけない訳じゃないことも、明日できるとは限らないから今やらなきいけないような気がして焦る

  • 当日の気分がわからないから人付き合いの予定が億劫

  • 自分の気分が安定しないから気分が安定している他人も信じられない

かつての自分はこういった無数の不安、不安、不安に押しつぶされそうな毎日だったと思います。
今は別に寛解したから元気いっぱい!というわけではなく、気分が乗らなければ明日やればいい、と休むことが出来るようになったことが物凄く大きな変化で、回復なのだと感じています。

今現在の環境がめちゃくちゃに辛い人は

これは最初の記事からずっと書いてるのですが、双極性障害を発症した原因のストレスや、それに値するような別のストレス源と現在進行形で一緒にいる人は、まずそこから離れることを第一に考えてください。

最初にした二重人格の話にも通じるのですが、基本的に精神病の類は「今すぐそこから逃げろ」という体からの合図または「逃げられないなら敢えて正常な回路を落としてエネルギーを節約する」ための防御反応だと考えています。

逆に辛い状態にいるまま、自分が強くなって環境に勝てるようになりたい!のような考え方でいることは、病気からの警告に逆らって封じ込めるような思考につながるのでお勧めしません。
次の章で書きますが、臭いものに蓋的な対処をしても、結局原因が見えないままに疲弊していくだけだからです。

長い人生です、一時退避してみて、元気になってもまだ元の環境や人間関係に戻りたいと思ったらもう一度戻ればいいと思います。
こと人間関係は一度失えば二度と戻らない気がしてしまいますが、実際には取り返しがつかないところまでぶつかり合う前に適切な距離を置けば、一時的に離れた後戻ることは可能である場合が多いです。
(あとハッキリ言ってしまうと、自分の健康を害してまで維持する価値のある人間関係は殆どありません)

とにかく、ストレス源と一緒にいながら治る、ということは極めて難しい。
自分の場合も向いてない仕事を辞めたり、それほどまだ元気出ないうちから初めての一人暮らしに打って出る、などの環境改善がどうにか功を奏して今の寛解に辿り着けたと思っています。

それ関連の過去記事です

もう大丈夫なはずなのにずっと病気の人は

実感として、私の10年間の大半はこの状態でした。
とっくに薬は飲んでなかったし、給料は低いが忙しくないそれなりに安定した仕事について、仲が悪い訳ではない両親と実家暮らしをして、趣味もあって友達も多少いて、何が問題かわからない、
でもとにかく自分が病気であることは厳然たる事実として心の中にあり、自分の中のあらゆる可能性を殺している状態。

これはつまり「双極性障害を引き起こした直接の外的原因は無くなっているけど、一定期間双極性障害であったことによって低下した自己効力感によって二次的な双極性障害が発症している状態」なのではないかと自分は解釈しています。

(ただし、「あの時双極性障害になりさえしなければ」という感覚はあまりなくて、自分の場合そもそも最初の発症も、発達障害やAC的性格の土壌から生じた、色んな意味で不可避のものだったと感じています。)

その状態に一度陥ると、世間で言われるような「とにかく休め」みたいな解決方法が通用しなくなるんだと思います。
そういう状態で何年か過ごした後、自分が辿り着いた対処法の一つが以下のようなものです。
(他の記事に書いたような、自己効力感を高めたり、基本的な生活を整えたりすることと並行して行った対処法の一つです)

今の自分は大丈夫、でも過去の大丈夫じゃなかった自分はいなくならない

ここからしばらく、自分の感覚の振り返りになるので興味がなければ次の罫線まで読み飛ばしてください。


冒頭の「もう一人の自分に感謝する」メソッドを知ったのは、確か現在の職種に転職するために数ヶ月間無職だった頃でした。
なので転職の勉強をしつつも時間はあったので、毎日往復2時間くらい掛けてかなり遠くの自然公園のようなところまで散歩をしていました。

メソッドに倣って歩きながらもう一人の自分(?)に話しかけたりしていると、今までなんとなく気付いていたけどあまり気にしていなかったことが気になってきました。

それは自分が過去のことをよく思い出せないということです。

もちろん印象に残っているエピソードなどはあるので何も思い出せないことはないんですが、(毎回卒業と同時に関係全ブッチしていたので)数少ない学生時代からの友人と話していると記憶に無い同級生が多かったり、現在の知り合いが話す学生時代の解像度を見るに、自分は学生時代のことをあまり覚えていないようだ、という認識は元々ありました。

ただ、今現在の自分から見ると、イジメられていたわけでもなく勉強もそこそこ出来た方だし、嫌な思い出ばかりという印象はなかったため、
単純に過去のことにあまり興味がないのかな…?
と思っていたのですが、散歩をしていたその時、なんとなく実はこの辺に精神的な不調の原因がある気がしてきました。

そこで中学生の時の自分を想像してみると、なんか「冷えて固まって箱に入っている自分」みたいなイメージがありました。
散歩中に頭の中にぼんやり浮かんでるイメージの話なので大半の人はマジで意味不明だと思うんですが、とにかくそういうイメージがあって、「なんか可哀想だな」と思ったような気がします。

この辺ちょっと定かでは無いのですが、とにかくそのイメージに対してさすって暖めたりとか、色々中学生時代のことを思い出してどうしてこうなってしまったのかなどを考えていた気がします。

そうすると、過去の自分の傷ついた気持ちが思い出される時が来ました。
これは単に嫌な思い出が蘇ってきたというのではなく「あの時どれほどの息苦しさを自分が感じてきたか、どれほど傷付きながら生きてきたか」が現在の心の中で再現され、理解できたという感覚です。

ちょっと恥ずかしいですが、そう言うことを考えながら夕方一人でボロボロ泣きながら誰もいない道を毎日歩いていました。
そしてイメージの中で、過去の自己像に血流のようなものが戻ってきて、少しづつ心の底が温かくなるのを感じました。その時、絶対この先に回復があると確信していました。

その後数ヶ月かけて、幼い頃から新卒時代に至るまで、自分の過去にフォーカスする作業を続けて、今まで意識することがなかった(出来なかった)驚くような自分の意見に出会いました。

大好きでは無いが…程度に考えていた母親が本当は大嫌いであることや、本人の意思だから仕方ないと思った友人の死、その選択を許せないと思っていること、一度も死にたいと思ったことがないと思っていたのに本当はずっと死にたかったことなどなどです。あと、病気だからとはいえ、自分で自分を信用してないことがどれだけ自尊心を傷つけてきたかも。

ついでに自分なりの過去の誘き出し方(?)を、きっとそのうち忘れてしまうのでメモしておきます

  • 野球観戦などで遠征した時に泊まるビジネスホテルの一人部屋のベッドに過去の自分と座っているのを想像する(これはインナーチャイルドについて調べた時に見つけた「自分が一番安心できる場所」を想像する方法を使っている。自分にとって一番安心できるのは家族といる家ではなく、一人でいるビジホ)

  • 黙って手を繋いで、何も話したりせず、ただ「どんな感情、例えば自分のことが嫌いという気持ちであっても受け止める」ということだけ考える

  • 向こうが話し出したり、緊張感や怒りが手を通して伝わってくるような気がする。そうしたらただそれを聞いたり、感じる。それだけ

  • あとは成り行き。いろんな立場の、対立する意見の自分が何人も登場したりすることもあって面白い


と言うわけで、自分の過去の傷のような記憶や感情について考えることは決して愉快なことではなかったですが、どうもその辺を「もう触れたく無いから」とすぐに忘れたふりをするのが上手かったのが不味かったようで。
今はそこから離れた安全な場所にいるのだと確信できる状態で、少し距離を置いて「思い出し・受け止める」という作業ができたのが良かったのでしょう。

続けている間に少しづつですが、(今書いてて思い出した)自分が解離性障害ではないかと疑わせた「自分の人生に対する現実感の無さ」が減っていき、自分の肉体や感情にリアリティというか、エネルギーが戻ってくるのを感じました。

偶然繋がったという感じですが、毒親や生きづらさについての本をたくさん書いている加藤諦三先生は、「うつ病患者は心の底に常に怒りを持っていて、それによって消耗し続けている」というようなことを書いていて、実際自分もその怒りに気がついて何年越しでもキチンと表面に出してやったことで、今まで前に進もうとする自分を疲れさせていた、内面の抵抗力を減らせたような気がします。

詳しくは無いのですが、アドラー心理学には「過去というものは存在しない」という言葉があるそうですね。
これは色々議論を呼ぶ部分であるようですが、個人的には「適切に過去にできなかった事実は永遠に過去にはならないのかもしれない」と考えています。

時が解決する、というのは一度向き合って心理的に解決した事象に対してだけに起きる終着であって、自分では「もうどうしようもないから終わったことだ」と思っていても、その時の自分が納得していなければ、永遠に心の底で怒ったり悲しいまま、ずーーーっと今の自分にとっても問題であり続けるのでは無いかと。

そして、そのマイナスの感情は心の底で毎ターン固定ダメージのように毎朝寝て回復したHPから削られて、結果的にHPが実際よりずっと少ないように感じられるのでは無いか。
という話、以前の記事でも書いていましたね。(この時は毒状態と書いていましたが笑)

回復には多分苦しかった時と同じくらいの長さの精算期間が必要

そういう風に自分と付き合うことを始めたのが、多分4年ほど前です。

それから自分の内面と対話する時間を取ることを忘れずに今までやってきましたが、未だに次々と過去の自分の知らないふりをしてきた辛さに気づいています。

最近はマインドフルネスをしている時に、胸のあたりが勝手にザワザワしてくる時があって、その感覚をたぐることで上手く自分の中の過去の不満と繋がって受け止められるようになりました。

過去の精算が少し進むと、不思議と今現在の自分に対する焦りなども減って、脳が軽くなる感覚があります。

自分で自分の感情を蔑ろにしていたのはおそらく双極性障害を発症するずっと前、多分20年以上前になるのだから、原因に気がついたところで数年やそこらでその負債を精算し終えることはできないだろう、積み上げてきた時間と同じだけ掛かったとしてもおかしくない、と考えています。

だけど、同時にもう、昔と同じように無自覚に感情を腐らせてそれを隅っこに溜めておくようなことはしないから、昔のような辛い精神状態に戻ることもないんじゃないかな、とも考えています。

だから今のところ、精神的な病気には「完治はなく寛解しかない」という事実は知っていても「だからいつでもあの状態に戻るかもしれない」とは思わずに生きていられます。

先のことは分かりません、誰にも分からない。
でも少なくとも、今再発に怯えることなく「寛解した」と言える元双極性障害者がいることを知って、少しでも今苦しんでいる人の励みになれればと思ってこのnoteを書き始めたのを思い出しました。

意外と後から読み返した時に自分のためになっているので、今後も思いついたことを書いていきますが、この記事では今までずっと書きたかったことの一つを書き切れたので今すごくスッキリしています😊

ここまでお読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?