努力は必要か?
何かを達成するために努力は必要か?
何の努力もせず、運よく手にした成功に価値は無いのか?
とにかく、努力というのは称賛される。
努力して何かを成し遂げるというのは、まさに分かりやすいサクセスストーリーだ。
もしかしたら、何を成功したかよりも、どういう努力をしてきたかのほうを重く見る人も多いと思う。
それだけ努力というのは、人の心を打つのだ。
逆に言えば、努力せずに何かを掴んだとしても、それはあまり受け入れられない。
努力せず掴んだ成功よりも、努力した結果の失敗の方が価値が、価値が高いと思われている。
だから、人は小さい頃から努力しろと言われる。
努力することこそが大切なことであり、
何なら、結果よりも努力することのほうが目的のようになることもある。
では、何かを成功させるためには、努力は必要なのか?
僕の意見としては「努力は要らない」だ。
ただ、これは条件がある。
努力というものを、「苦労するもの」「苦しむもの」と考えている場合は、そんなものはいらない、という考えだ。
何かを頑張るというのは、楽しむために行動することであって、苦しむために行動することではない。
苦しむようなことは、結局長続きはしない。
どこかで、体か心に不調をきたすことになる。
努力とは他人からの評価でしかないのでは?と思うときがある。
あの人は頑張っているという他人からの評価を表す言葉が努力なのであって、
自分自身がやることを努力と呼ばない方がいいのではないか、と考えた。
だって、「自分は努力している」と考えるときって、大抵苦労しているときや、苦しんでいるとき、そこまで思わないにしても、少し無理をしているときだからだ。
もし、待ちに待った連休、結構前から計画を立て、泊りがけでかなり遠い土地まで旅行に行く時、
ワクワクしながら家を出て、普段の生活では考えられないほどの長距離を、飛行機やら電車やら、乗り物を使って移動して、
そして、ついに目的地に辿り着いたとき、
「いやあ、ここまで努力して来たなあ」
と思うだろうか?
たぶん思わない。
でも、実際は長距離移動は疲れるのは確かだ。
普段よりも体力を使うのも確かだ。
だけど、人はそれを努力とは呼ばない。
なぜなら、人は「楽しいこと」にはどんな労力を割こうと、それを努力とは思わないからだ。
むしろ、当たり前のこと、と思っている。
これが、何かを成し遂げるのに努力は必要ないという理由だ。
人生を生きていくなかで理想なのは、
『他人からは努力していてすごいと思われるけれど、自分にとっては当たり前のこと』
を見つけることだと思う。
野球が好きでプロを目指して、毎日1000回バットの素振りをしている人がいたとして、
その人は努力している人だと、周りの人は言うだろう。
だけど、当の本人からしたら、
「いや、これくらい普通でしょ」
と思っているかもしれない。
周りからは努力に見える。だけど本人はそう思っていない。
これを才能と呼ぶのかもしれない。
例えば、ドラゴンボールの悟空の才能は「強さ」ではない。
悟空の才能は「修行」である。
悟空が一度でも、修行をつらいものや、できればやりたくないものとして捉えていただろうか。
下手をすると、家族や友人よりも修行を選ぶのがあの男である。
悟空にとって修行とは、呼吸や食事と同じくらい、当たり前のことなのだ。
自分にとっては大したことではないが、どうやら周りの人にとってはそうではないようだ、と思えるものが見つかれば幸せだ。
きっとそれは長く、自然に続けることができるだろうし、周りの人にとっても役に立つことだ。
努力をしようなんて考える必要はない。
自分にとって、自然に考えることができて、当然のように体が動くこと、そして当たり前のようにそれを続けられること、
それを周りが勝手に努力と呼ぶのだ。
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