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強いと思われている者と弱いと思われている者

商売は人から必要とされていることを他者に提供できるから成立するものである。人類は物々交換から、さらに効率的に等価交換したいのと、概念をも交換できるようにと紙幣を編み出し成長や幸せに必要なものを紙と交換して発展してきた。

複雑になった経済の中で、同じ価値で人類の役に立っていたとしても、業種によって時世の流行で得る額が違ってくる。それはお金は資本主義の原理としてお、必要で(人気で)効率的に動ける所に総数が移動する性質があるからだ。

その性質を知れば単純に価格の大小がビジネスの価値の大小であるとは言えないことがわかる(もちろん必要とされてる幅が多いほど価値は上がる。ここで言いたいのはそれだけの単純なことでないということだ)

その根本を理解できないと、2億儲けてる会社より20億儲けてる会社の方が正しいと声高く歌う人たちの誕生を許してしまう。そして彼らは平気で札束で人の顔を叩くようなことをしはじめる。

冷静に考えたらわかるだろう。その業界のライバルの単価と自分の会社は桁数に差異はあまりない。

一方、他業界をみると別世界が広がっているのだ。安い世界がある。そして安いからその業界にいる経営者や従業員に価値がないと反射的に考えるのだ。

確かにどうしょうもない会社はどの業界にもある。ただ儲かる程度の低さを知っていても、世の中のために尽力をつくしている人たちもいることは忘れてはならない。価格だけで考えることはとてもとても下品だと思う。世の中の全員が儲かるに決まっている業界の仕事しかしなくなったらどうなるのだろうか?誰が野菜をつくってくれて、誰が保育園につとめてくれて、誰が老人の介護をやってくれるのだ?アニメの絵を描いてくれてる人がいるのか?彼らは人間的に価値が低くて才能がなくて愚かなのだろうか?

もう一度言うがそれぞれの時代で業種により動くお金のボリュームは違う。それは実力というより時世の部分が少なからずある。少なくとも人が人を見下してよい理由にはならないと強く思う。

過去に壁と卵というタイトルの村上春樹氏の素晴らしいスピーチがあった。あれは政治と個人の話として理解されるが、資本主義の中での話にも当てはめることができるはずだ。

芸術を仕事をしている者は文化を発展していく誇りを忘れてはならない。

私に起こったことではないが、あるストーリーをある場所で聞いて感じた違和感から考えたことである。

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