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1‐2 人はなぜ運動するのか?

人間はなぜ運動するのでしょうか?

それはズバリ生きるためです。

今でこそ人間は食物連鎖の頂点に位置していますが、長らく天敵だらけの環境を生き抜いてきました。

 その端的な例が、「眼」です。

 我々人間の「眼」は天敵であるヘビによって進化してきたと考えられています。毒ヘビがいる地域の霊長類は、いない地域の霊長類よりも視覚の機能が優れていますし、ヘビを見たことがないサルも、ヘビを認識できることがわかっています。

 人間を対象とした実験でも、ヘビを見つける能力の方がトカゲを見つける能力よりも高く、しかも短時間で見つけられる、という結果が出ています。

 もし森の中で猛毒のヘビに出くわしたら、ヘビから「逃げる」か、ヘビを「追い払う」か、ヘビを「殺す」しかありません。

 運動が解決への道となります。待ったなしの危機に直面したら、瞬時に陸上ランナーか、道具を駆使する職人か、格闘家に変身するしか生きる道はありません。

「あ、私、運動苦手なんで、そんなのムリっす」なんて言っている人はすぐに静かになるでしょう。

 そして運動は「理解」とも深く関わります。たとえば「山の向こうにどんな景色が拡がっているか?」を知るには、山の向こうまで移動しなければいけません。

私たちの脳は、

❶山の向こうまでの視覚情報の変化、
❷山の向こうまで移動したときに身体各部から得られる運動の情報、
❸移動するときの外からの情報、

などを統合して初めて「山の向こうの景色」を理解します。

「動かずに理解できる」ということはなく、「運動量が不十分なのに理解が十分」ということも、本来ないのです。

山の向こうに「オオカミの群れがいる」、あるいは「たくさんの果物がなっている」、どちらの景色の理解も生存に直結します。そういった重要情報を群れ、仲間、家族に共有する手段として絵画や言語が発達してきたと考えられています。

 現代社会において、スマホで動画を視聴する、SNSを眺める、などのテクノロジーの発達は、プラスの面もたくさんありますが、運動の欠落というマイナスも招いています。理解したような気になるんですね。


ですから「運動と共に理解する」は人間本来の性質であることを強調しておきたいと思います。

 運動すれば、理解できる。理解できれば、予測できる。予測できれば、生きる可能性が上がる。運動は本来、「生きる」ということに向かう行為であり、「生きる」ということの証明です。
 
 アスリートやパフォーマーが人々に感動を与え、賞賛される最大の理由――それは「生きる」を体現しているからではないでしょうか。

PS. おかげさまで手に取ってくださる方が増えています。

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