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知識と行動

脳を武器として強くなるには知識が不可欠です。「知ってるだけでは意味がない」「知識があっても行動が伴わなければ」「知識よりも経験が大切」という考え方もあって、それらのメッセージの意図するところもわかります。

現実場面において、超頭でっかちで経験を通じた言葉を持たない「机上の空論の達人」や、知識ばかりで行動しない「言うだけ番長」からは距離をとったほうが得策ですし、やっぱり何かを追求してる人の話のほうが大概面白いです。私自身も無自覚に達人や番長になってしまわないように、十分に自戒したいところです。

というわけで、とかく「知識VS行動」の対立的図式で語られてしまいがちですが、ここでは改めて「知識」と「行動」について考えてみたいと思います。

まずは「ある知識は何らかの行動の結果である」というシンプルな事実です。

 たとえば、ゾウがこちらに正面を向けて立っているとします。顔の反対側にはシッポがあるわけですが(私たちは既にそれを知識として記憶しているわけですが)、もしゾウを初めて見たとしたら、後ろ側がどうなっているかを知るには少なくとも数メートル以上は歩いてゾウの後ろに回り込み、眼でシッポを確認する必要があるわけです。

 この時、脳は歩いて回り込んだときの景色の変化による「視覚からの情報」と、回り込んだときの筋肉や腱、骨膜、皮膚などにある神経終末から脳に集積される「運動の情報」を比較します。これらが一致して「顔側から歩いて後ろに回り込んだら(運動の情報)、シッポがある(視覚の情報)」という具合に脳は理解します。「動く」がなければ、景色は変わらないため「知る」ことはできない、というのがもともとの「脳の都合」なのです。

次に「知識は行動の契機である」と言えるでしょう。

 たったひとりで無人島に漂流し、ようやく食べられる果実のなった木を見つけたら、きっと「手を伸ばして果実を採る」という具体的な行動をとるでしょう。

この時、目の前の視覚情報と脳内に保存されている「この果物を食べたことがある記憶」あるいは「この果物は食べてもいいという知識」が瞬時に比較され「食べてOK」と判断して、「手を伸ばす」という具体的な行動がスタートします。手を伸ばしているときは、その行動の結果としての食べる自分も、ほぼ同時に想像しているわけですね。

 これが食べたら危険な果物だったら、スズメバチの大群が集まっていたら、あるいは木が崖っぷちギリギリに生えていれば、「手を伸ばす」という行動は起こさなかったはずです。意図的な運動は、いろんな記憶や情報を基に前頭前野で運動イメージが想起されてスタートするので、「適した行動」には「知識」という判断材料が不可欠なのです。

 人類の進化の歴史において、道具を使って壁に画を描いたり、言葉に表して意味を伝えたり、文字を発明して記録したり、といった形で、知識を外部保存できるようになったのは比較的最近のことです。動くことで何かを知ったり、知識が新たな行動を促したり、逆に間違った知識が不適切な行動を招いたりするのも、知識と行動が不可分であることの証明でしょう。

 改めて「知」という漢字をよく見ると、矢と口から成り立っています。一説には「物事の本質を、口、すなわち言葉を用いて、矢で射抜くように言い表す」という意味が込められている、といわれています。つまり「知っている」とは、それを言葉で言い表せるかどうか。「ここまではわかっている、ここから先はわからない」のラインを把握しているか。わかっている範囲について、きちんと言語化できるかどうか。「知」には能動性が伴うようです。(拙書『強さの磨き方』より)

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どんな本なのか、知りたい!というお声をいただき、一部公開しています。おたのしみいただければ嬉しいです。


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