絶対と関係と野生の間
2018.02.04
3つの展覧会を駆け足でハシゴしての雑感。
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「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s―1990s」
@国立近現代建築資料館
毎度お馴染み毛綱毅曠さんのドローイングが異彩を放ち過ぎてあれですが、個人的には同時代の建築家の影響が伺える藤井博已さん(アーキズーム/ノン・ストップ・シティ)や鈴木了二さん(ダニエル・リベスキンド/マイクロメガス)が興味深い。
建築から自立した純粋な表現としての建築ドローイングは、実際の建築以上にコンセプトを雄弁に語っている。CADによる建築ドローイングの衰退は勿論あるのだろうけど、現代だとそのある種<絶対的>な空間性・建築性に対する興味が薄れているようにも感じる。
95年以後の「関係性の美学」から追放されたかに見える純粋な建築ドローイングだけども、やはりその純粋で普遍的な表現にしか出せない圧倒的な美しさというものも存在するわけで、後世にまで時間を超越して唯一残り得るドローイングの<絶対的>な魅力を再考する必要があるのでしょう。
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「en[縁]:アート・オブ・ネクサス 第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館帰国展」
@TOTOギャラリー・間
縁=つながり=関係性がテーマということで、様々な関係性の表現による建築たちの展示。
住まい方や地域経済、構法、素材、コンテクスト等々…それぞれが独自の物語を編集することでその魅力を表現している。
極めてドメスティックな課題かと思いきや、映像で猪熊さんが触れていたように、グローバルな関心事としても有効であったり、能作さんが触れていたように当たり前にやっていることが評価される驚きだったりと、世界的には<関係的>な空間・建築に対する価値がまだまだありそう。
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「野生展:飼いならされない感覚と思考」
@21_21 DESIGN SIGHT
本能的な身体的・美的・知覚的感覚を仮に<野生性>とでも言うならば、現代の人間はそれがとても失われてしまっているのかもしれない。
それでもまだ飼いならされていない<野生性>があり、そこに訴えかけたり、そこから発現するものに人々は魅了される。
中沢新一さんがディレクターということもあって、文化人類学でスピリチュアルな部分も多分にあるけれども、例えば石や植物といった自然物が放つ異様な神聖さみたいなものはあって、直感的に美しいと思う感覚は大事。
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「建築ドローイング展」では<絶対的空間>の力が問われていた。そこには現実から自立した普遍的で純粋な建築表現が為されている。
一方で「アート・オブ・ネクサス展」では<関係的空間>が中心に位置付けられており、付記されるのは可愛らしいドローイングや人々が和気あいあいとした写真だったりする。
また「野生展」ではモノそのものの力が重視されていて、フェティシズム(=物神崇拝)的である。
<関係的空間>において、そこで用いられている素材を標本的にプレゼンテーションするのが流行しているが、「野生展」と比べるとモノそのものが特異というわけではなくて、あくまで建築という総体を表現するための手段であるような印象を受ける。なので「野生展」での南方熊楠の<縁起>と<関係的空間>で援用される<アクター・ネットワーク論>は似ているようで実は違うんじゃないかなと感じた次第。
それに対して、建築の絶対性を追求しているのが「建築ドローイング展」の諸建築で、当時の建築ドローイングは<野生性>に溢れているのではないか。
大事なのは、<絶対的空間>と<関係的空間>は相反するものではないということ。
1991年神奈川県横浜市生まれ.建築家.ウミネコアーキ代表/ wataridori./つばめ舎建築設計パートナー/SIT赤堀忍研卒業→SIT西沢大良研修了