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エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ著『食人の形而上学』

エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ著
食人の形而上学 ポスト構造主義的人類学への道


現代において重要な考え方が提示されてると思ったのでご紹介。
文化人類学にドゥルーズ+ガタリの「多様体」や「リゾーム」といった概念を持ち込んで哲学と架橋した面白い著書。
余談ですが、下敷きとしてもちろんレヴィ=ストロースがいるわけですが、妙に読み進めるのがしんどかった。文化人類学にまだまだ慣れてない証拠。
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ここからが本題です。
自己と他者が相互に向かい合ったとして、実は互いの視点に双方向性は無く、それぞれが異なったものの見方をしている。それをパースペクティヴ主義という。誰かの視点を想定して、彼のもののを見方を思考すること。
例えば、本文中の表現を借用すれば、ある人にとっての「ビール」がある人にとっては「ジャガーの血」である、といったように。これは極端な例だが、重要なのは、二元的な二つのもの(例えば自己と他者)は互いに「非対称的で相互的な内含の関係」だということ。
自己規定のためには、他者を取り込む/捕食する必要がある。これを”食人”というショッキングな隠喩として表現されている。

ガイドラインとなる本文を抜粋。

他者に関して同じように無知であるにもかかわらず、他の他は、同の他と同じでは決してない。おそらく、真逆だというべきだろう。(p.34)
…「私を理解しない彼らの仕方は、私が彼らを理解しない仕方とは同じではなかった」。おそらくそれは、これまで提示された人類学の最良の定義であるだろう。ここで決定的なポイントは、無理解という経験的事実にではなく、双方の無理解は同じではないという「超越論的事実」にある。だから、誰が間違っているのかを問うことも、誰が誰を間違えているのかを問うことも重要ではない。多義性は、誤りではないし、蔑視でも誤謬でもない。それは、多義性を含む関係性の根拠そのものであり、外部との関連のなかにつねにあるものである(p.108)

誰ひとりとして同じように物事を見ていないと仮定するならば、できるかぎり相手の視点にたって、彼の見ている景色を”想像”する必要がある。
だから彼になりきること/取りこむこと、つまり捕食しなければならない。
否定、拒絶するのではなく、畏敬の念をもって”食人”すること。それは自己と他者の間を越境するための一つの手段である。
二項対立を弁証法的に一元化するというより、複雑なものを複雑なまま折り込むような感覚。
私はこう思う、あなたはそう思う、それを無理にまとめなくていい。存在への寛容。
つまるところ、思いやりの精神ですね。

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読書感想文

1991年神奈川県横浜市生まれ.建築家.ウミネコアーキ代表/ wataridori./つばめ舎建築設計パートナー/SIT赤堀忍研卒業→SIT西沢大良研修了