柳宗悦の「直観」美を見いだす力
日本民藝館の特別展「柳宗悦の「直観」美を見いだす力」で配布される,柳宗悦が晩年病床で書いた『直観について』というA3両面刷りほどの短い文章が熱い.
直観はものを、「そのままの相」で「そのままに観る」こと
であり,
それ故見ることにも、見られる相手にも囚われず、又自らにすら囚われない自在さに入ってこそ、初めて直観が可能になる。
直観の根のない知識ほど、美に向って力の弱いものはない。かくして直観は初めからものに判断を加える作用ではない。又判断されたものを受取るのが直観でもないのである。吾らはいくら多くの知識を持ってもよいが、その知識に直観を委ねてはいけない。常に「知る」よりも前に「観」ねばならない。
ではなぜ美の価値判断に直観が重要なのだろうか?
それは美しさが言葉や判断に余るものだからである。特に美しさが深ければ深いほど、言い難い性質を持つからで、その理解には言葉を超えた理解、即ち知的判断に限られない洞察が、内に働かねばならない。
この記述不可能性こそが美の本質であると言える.
ここで「直観」と混同しがちな概念として,柳は「主観」と「独断」を挙げている.
主観は私を以て見る事であるが、直観は私なくして観る事なのである。又直観はとかく独断に陥りはせぬかを危ぶむ人もあるが、この両者は全く別のものである事をよく知ってよい。独断は先ず何等かの知識があって、その上に立ってものを判別するが、直観は全く別で何等の知を働かせずして、直ちに観る事にその特色がある。
ただそのまま観ることの難しさは福尾匠著『眼がスクリーンになるとき』に通じる話である.
そして柳は当時(1960年頃)の芸術界を痛烈に批判する.
若し一切の美評論がこの直観に根ざすなら、この世の美術史や文学史は、どんなに深く正しいものに発展していたであろう。然るに多くの美の歴史は、とかく理論や様式論や在銘論等が主軸になって廻転しがちなので様々な不思議な矛盾が伴ってくるのである。
それ故美に関する人間の一切の言説は、その出発に直観を持たないと、とんだ間違った方向に進む事になろう。それ故直観人のみが、真の歴史家になり得、美学者に成り得るのだという、ごく簡単な理論さえ忘れがちになるのである。
建築のあるがままの美しさを純粋に論じることが為されないのは往々にして疑問なわけですが,その直観によるところの<絶対的空間性>とも謂えるものを脇に置いて,建築論を論じることの空虚さについて,建築家は自覚的になるべきではないだろうか.
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1991年神奈川県横浜市生まれ.建築家.ウミネコアーキ代表/ wataridori./つばめ舎建築設計パートナー/SIT赤堀忍研卒業→SIT西沢大良研修了