木漏れ日と戦火

昨日バイト先から電話がかかってきて、さらに5月いっぱいの休業が決まった。
今日、久々の出勤予定だったので、再び仕事がなくなってしまった。

そういうわけで、昨夜も徹夜して、あーだこーだ実生活から解離したマクロなことばかり考えていた。
日が充分に昇った頃、またバイト先から電話がかかってきた。
休業前に先月の給料を渡したいから、ということだった。
お店に行くと、休業手当込みでずいぶんいただいた。
私はまだ全然お店に貢献できていない。
世間が慌て出す直前にお邪魔して、皆さんに挨拶するかしないかで街の飲食はやれなくなったので、まだ両手で数えられる時間しか働いていないのだ。
私はつくづく人の縁に恵まれている。
誰がフラっと入ってきた見ず知らずの新人に、その生活を気遣って金を出せるか。
偉い会社だと思った。

私も何か恩を返さねばと思い、とりあえずお店からすぐにある神社をお詣りした。
この社は樹齢1000年とも言われる楠(くすのき)をいただいていて、私はその楠の姿が大変好きなので、たまにお詣りに行くのだ。
いつもは賽銭を入れて、『こんにちは』と、声をかけるだけなのだが、今日は、厚かましくもお店の安泰をお願いしてきた。
午前の真ん中辺り、多少の雲を抱く空が葉の隙間に美しい。
特定の信仰に深く帰依することは、今はまだないが、土地の神や受け継がれてきた霊性の記憶には、畏敬の念を持っている。
この社や楠は、昨日今日に生まれた私とは違う。
この土地の数百年にわたる歴史を一様に見つめてきたのだ。
それをなぜ、たかが木、たかが人間の建物と言えるだろう。
私の祈りが届くかは、私には知れたことではないが。

さて、せっかくお金持ちになったのだから使わねば。
帰り道にいつものコーヒーロースターに寄った。
店の前に来ると、先客がいた。
せまい店内なので、私は店の外で一歩引いて待つことにした。
すると、また別のお客さんが来られて、私がややこしい位置に立っているので、店先に並んでしまった。
『あちゃ、もう一人待たなきゃ。まぁ、曖昧な自分が悪い。』と、自分の立ち位置の意思の浅薄さを責めていると、店の方が、先に並ばれていたので、と案内してくれた。
私に気づかなかったお客さんも、すみません気づかなくって、となって、私はいよいよ私を責めた。
一日の午前のうちに、こんなに色々な人に気を遣わせたのでは、恥ずかしい。
『すみません、私がもうちょっと分かりやすく立ってれば』と断りつつ、選ぶ暇もなくとっさに目に入ったコスタリカを200g購入した。
会計をしながら、私が上着を小脇に持っているのを気づいて『暑くなってきましたね。』なんて声をかけられながら、『お待たせしたので、少し多めに入れときますね。』なんて言われた日には、"早起きは三文の徳"ならば、"徹夜は三万の徳"という感じだった。
あぁ、恥ずかしい。
神さまも今日は私を贔屓しすぎなのではないか。
少なくともこんな自堕落な人間の浸かる世間ではない。
有り難し。

このような経緯から今日私が手にしたコーヒー豆。
それはコスタリカから来た。
この国も変わった国である。
1949年に常備軍を廃止し、急激な軍縮をはじめ、いわば軍隊を放棄したのだ。
それからは「兵士の数だけ教師を」というスローガンを掲げ、それを実行し、平和と中立を維持してきた。
内戦に勝利し、この有名なスローガンを掲げ、コスタリカの平和と発展を望み、人々を指導したのが、ホセ・フィゲーレス・フェレールという人物だ。
中央アメリカというお世辞にも安全とは言えない地理的条件の中で、問題はありつつも軍事力放棄を貫くコスタリカは、世界的にも非常に稀有な国家と言える。
コスタリカの人々は、日本の憲法9条を高く評価し、同盟意識を持って日本の平和主義を支持している。
しかし、どうも今日の我が国は、着々と戦争に向かっているようである。
そして、私はコスタリカも心配している。
もはや次の戦争は、代理戦争とかでは効かないのだ。
世界中の総力戦。
その混乱の中で、コスタリカはいかに振る舞えるか。
コスタリカはこれまで、いさかいの前兆がある度に、国際社会にその結論を求めてきた。
そして万事はうまくやれてきた。
が、その国際社会、あるいは国際組織が、実は最大の戦争屋だったとき、白昼の弾幕にコスタリカは耐え得るだろうか。

私が今日、楠の御神木の下で呼吸をしたように、コスタリカのコーヒーの木も、より大きな木の木陰に育つ。
中央アメリカの十分すぎる日光は、時に過剰なのだ。
そのため、コーヒーツリーは「シェイドツリー」と呼ばれる木のそばに植えられる。
自分より大きな木の陰に育てて、日照量を調整するのだ。
東西の冷戦を越えて、人類は「核の傘」のいびつな幻想の下に生きてきた。
私たちは辛うじて適切な日照量を保ってきたように思えるが、ひとたび空に翳りが差せば、もう当分コーヒーは飲めない。
眩しすぎる光のなかでは、いかなる希望も見えなくなる。