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エッセイ:足立市場に行ったときの話。

『足立市場』は都内唯一の水産物専門の卸売市場らしい。足立市場は東京都足立区の「千住」エリア、隅田川に隣接する場所にあり、そこでは年間で12,000トンもの海産物が取引されているという。

この市場の存在は以前から知っていた。何を隠そう、僕がこの市場の近くに住んでいるからだ。少し自転車で遠出をするときに隅田川の近くを走ることがあるのだが、そのときにいつも「足立市場」と書いてある看板を見ては、「ああ、そういえばここに市場があったんだっけ」とぼんやり考えて通り過ぎていく。

それは僕にとって日常の風景の一つでしかなく、僕にはおよそ関わりのない場所だと思っていた。まあ、そもそも市場というのは一般的な消費者にはほとんど無縁の場所だし、魚なんて近くのスーパーで買えるからわざわざ行く必要も無い。それが以前の僕の考えだった。

ある日の晩、僕はスーパーで買ってきたアジの干物を焼いて食べた。だが一口食べて見て、パタリと箸を止めた。「うーん」と思わず声が漏れた。
「美味しくない」とは言わないが、塩気が少なく、ジューシーさがない。何だかパサパサとしていて魚の旨みを感じない…。

その干物は決して高価なものではなく、近くのスーパーで1匹180円くらいで売られているものだった。大して高い干物でも無いのだから、クオリティを期待するべきでは無かったのかもしれない。僕自身、それは理解していた。1匹180円の魚を、しかも夕方の特売で20%オフの価格で買ったのだから、その安売りされていた魚に対して多くを求めるのは酷というものだ。

そう理解はしていたが、どうにもモヤモヤとした気持ちが晴れなかった。ああ、叶うことなら港町に行ってそこで新鮮な魚をたくさん食べたい。その日水揚げされたばかりの魚を、新鮮なうちに食べてみたい…
まあ、僕が東京に住んでいる以上、この先もずっと旨味の無いパサパサとした魚を食べながら生きていくんだろうな。ああ、これが東京で生きるということか… 僕はそんなことを考えながら、悲観的な気持ちのままその日の夕食を平らげた。

食後に本を読んでいるとき、ハッと気づいた。
あれ、そういえば近所に市場があるじゃないか!何かの記事で、足立市場は海産物が豊富だと見たぞ。あそこに行けば新鮮で美味しい魚が手に入るじゃないか!!
僕は嬉しくなって、次の日の朝に足立市場に行ってみることにした。

「市場(いちば)」と聞くと気軽に行って食材を買えそうなイメージがあるが、「市場(しじょう)」と聞くと僕たちには縁遠いものに思える。「市場(しじょう)」と聞いて思い浮かぶのは大きなマグロを解体する光景だったり、様々な海産物を業者が競り落とす「セリ」の光景ではないだろうか。

その印象は合っている。実際に、足立市場でもそういった取引が行われているが、当然ながらその「セリ」に僕たち一般人は参加できない。だが、一般人でも気軽に買い物ができるエリアがある。それが「仲卸売場」だ。そこでは様々な商品を少量から購入することができる。一般の客や、小さな飲食店の店主が新鮮な食材を求めて集まる場所だ。

一般的にあまり知られていないようだが、国内の市場にはこういった「仲卸売場」が用意されていることがほとんどであり、その場所は一般消費者であっても自由に買い物ができる。市場によってルールが異なる場合もあると思うので、買い物に行く際は事前にその市場のWebサイトなどを調べておくのが良いだろう。

ちなみに、足立市場では海産物以外にも野菜や漬物などの加工食品も購入することができる。それ以外にも、施設内には飲食店もあって、そこでは足立市場で仕入れた新鮮な魚介類を使った寿司や海鮮丼を楽しむことができるという。


さて、翌朝8時半ごろに家を出て、僕は足立市場に向かった。昨日食べた味気ないアジの干物の記憶を、すぐにでも美味しい魚の記憶で上書きしたいと思っていた。市場の入り口には警備員がいた。市場の中を覗いてみると、いかにもセリに参加していそうな風貌の業者らしき人たちが見えた。そこからは一般客が見えなかったから、僕は本当に入って良いのか不安になってしまった。

僕は厚手のダウンコートにリュックサックという出立ちだったから、どこからどう見ても業者には見えなかっただろう。きっと自由に入って良いのだろうが、場違いな場所に恐縮していた僕は不安だったのでそこにいた警備員に声をかけた。

「すみません、一般の者なんですけど、普通に入って大丈夫ですか?」
「ああ、はい。大丈夫ですよ。」

警備員は朗らかに答えてくれた。言った後で思ったのだが、よく考えると「一般の者です。」という自己紹介は極めて不自然だ。まるで、自分は芸能人とか、有名人じゃ無いんですが…と自己紹介をしているような気がして、なんだか可笑しな気がした。業者などのプロではない、という意味で言ったのだが、言った後で間違えた言葉選びをしてしまった気がした。

さて、警備員から許可を得た僕は急に自信が漲ってきて、ズカズカと市場の中に入って行った。まるで侵入禁止エリアに入れる唯一の権利を持った人間のような気分だ。駐輪場に自転車を停めて、早速市場を見て回る。

奥の方に、魚介類を扱っているエリアが見えた。そのエリアにズカズカと歩いて近づいていくと、広い市場の中に所狭しと発泡スチロールの入れ物に入った魚が並べられていた。まさに「市場」と聞いて思い浮かべるような光景だった。

中に入ってよく見てみると、スーパーでもよく見かけるようなアジやサバなどの魚はもちろん、金目鯛や太刀魚、カレイやブリらしき魚の並べられていた。僕の知識でわかる範囲はこの程度で、あとは名前も分からない魚が多数いた。値札には魚の名前を思しき文字が書いてあるのだが、そもそもその手書きの文字が判読不能であったりして、何の魚か分からないものもあった。

市場には幾つのも売場があり、鮮魚を扱っている売場もあれば干物や冷凍の魚を主に扱っているところもある。貝類が豊富な店もあったし、パック詰めされた、それこそスーパーで売っていそうな魚介類を扱っているところもあった。ブロック状に切り分けられた巨大なマグロの塊を売っている店もあった。
売場と売場の間の道は狭く、そこを何人もの人が行き交う。人だけではなく、フォークリフトも行き交う。僕はリュックサックを背負ってきたことを後悔した。市場に来るなら、可能な限り身軽な格好にするべきだった。

市場に並べられている魚介類を見ると、イワシは「1匹200円」アジは「1匹500円」などの値札が付いているものもあったが、ほとんどの商品には「1k 2000円」のような値札が付いていた。これは「1kgだったら2000円ですよ」という意味らしい。

市場では基本的に「kg(キログラム)」単位での値段が設定されており、ほとんどの商品には1kgあたりの値段が記されているそうだ。一般消費者のように1匹単位で購入する際は1kgあたりの価格からおおよその値段を計算するか、店の人に値段を聞いてみるとよい。

僕はしばらく市場の中をウロウロして美味しそうな魚を探した。市場に入るときには根拠不明な自信に満ちていた僕だったが、入って1分ぐらいすると随分と気弱になっていた。というのも、市場は慣れていないと困ることが多い。先ほどの値段の件もそうだが、注文方法や売り場の魚を勝手に取って良いのか、など不明な部分が多く、不安になる。
それに加えて周りの一般客は50代くらいの中年男性やおじいさん、おばあさんが多く、20代の僕は場違い感が否めない。時々30代くらいの人を見かけて安心するのだが、そういう人はどう見てもプロの方で、真剣な眼差しで魚を見ていた。

僕のように「あーあ、美味しい魚が食べたいな~」という安易な考えでフラフラと市場にやってくる20代はほとんどいないようだ。冷やかしだと思われていないか不安にもなった。それに、市場には何となく明文化されていない独自のルールがあるような気がした。そもそも市場で行われる「セリ」だって一般人には理解不能だし、何か僕がいるこの場所にも厳格なルールがあって、僕はそのルールに違反しているような気がしていた。

だが僕はそんな中で、自分自身を騙して自信を漲らせる方法を思いついた。「僕は高明なフレンチレストランの店主で、今日使う食材を選びにきたのだ」と自分に言い聞かせるのだ。そして、自分が本当にレストランの店主だと思い込んだまま腕を組んで、真剣な眼差しで魚を眺めるのだ。
僕は今日、自分の晩ご飯を探しにきたのではない。お客さまに提供する最高の食材を選びにきたのだ!そう自分に言い聞かせながら、眉間に皺を寄せて魚を見比べる。

周りの業者はきっと僕の真剣な眼差しを見て、「ああ、この人はプロだ。フレンチレストランの若い優秀な経営者で、いつも自ら仕入れをしているんだな。この市場で見かけたことはないけど、きっと最近までフランスとかにいて、やっと日本に帰ってきたんだろう。」…と、そう思っているはずだ。僕はそうやって自分に言い聞かせ続けた。

実際には、ダウンを着込んでリュックを背負った若者が眉間に皺を寄せて魚を見ているのだから、「あの人、魚の種類が分からないのかな?」と心配そうな表情で見られていた可能性は否定できない…。

しばらく自分なりの目利きをしていると、とある売り場に生牡蠣があるのを発見した。スーパーに売っている剥き出しの牡蠣ではなく、殻付きだ。生食用ということだったのできっと鮮度が良いのだろう。値段を見ると、1個150円だった。その牡蠣は発泡スチロールの入れ物に氷と一緒に並べられていて、近くにはビニール袋が吊り下げられてあった。後で知ったのだが、このビニール袋に自分で好きな商品を入れて店主に渡せば良いらしい。

そんなルールも知らなかったので、僕は近くにいたその売り場の担当者と思しき男性に声をかけた。

「すみません、この牡蠣を4つほど買いたいんですが。」

言った後で、この時の台詞も少しおかしいような気がした。「4つほど」というのが「4つくらい」という意味なら、店主が追加でもう一個買わせたとしても許される気がする。明確に「4つ」牡蠣が欲しかったのに、僕は「4つほど」と言った。その言葉に、この市場という場所に萎縮している自分のか弱い心が表れているような気がした。

僕が声をかけたのは僕よりも少し小柄な男性で、目深に被った帽子から白髪を覗かせていた。その老人は伝票の整理中だったようで、僕の声を聞くと目の前の伝票を慌ただしくひとまとめにして振り返った。

「はい、牡蠣ね。えーとね…」

そう言って店主は電卓を叩いて金額を計算した。それを見ながら僕は、「今時電卓って見なくなったな〜」と思っていた。僕が子供の時はスマートフォンなんてなかったから、一家に一台電卓があったものだが、今の僕の家には無い。以前住んでいた家にもなかったし、最近帰った実家にももう電卓は無かった気がする。目の前の老人が電卓を弾く姿を見て、僕はなんだか懐かしい気持ちになった。

しばらくして金額を伝えてくれた老人は、牡蠣が入った入れ物の前まで歩いていき、そこから牡蠣を4つ取り出した。

「これ、プロも買っていくような牡蠣だから、美味いよ!!」

そう言われて僕は嬉しくなったのだが、その反面、この牡蠣で当たってしまった時のことを考えて身震いした。プロも買っていくような新鮮な牡蠣で当たったとなれば、僕はその時、この気さくな老人を恨んでしまわないだろうか。そう思って少し不安になった。

「ありがとうございます。この牡蠣って、ナイフとかで、こう、ガッと貝を開けたらいいんですか?」

僕は不安を抱えつつも、その気さくな店主にハンドジェスチャーを交えて質問をしてみた。すると、店主は意外な返答をした。

「ドライバーがいいよ!」

「…ドライバー?」

「ドライバー」と聞いて「運転手」の意味かと思った僕は、何を言っているのか分からずに焦った。

「家にあるドライバーをここに入れてね、グイッと力入れたら取れるから。あとはツルッと食べるだけよ!」

ああ、なるほど、工具の方の「ドライバー」か。確かにナイフだと危ないし力も入れにくいから、ドライバーを使うのは良いかもしれない。
僕はついでに聞いてみた。

「これ、生で食べるときはそのまま食べちゃって大丈夫ですか、塩とか特になしで。」

正直、僕は生牡蠣をほとんど食べたことがなく、塩を振るべきかどうか分からなかった。店で生牡蠣を注文するとどういう味付けで出てくるのかも全く知らなかった。

「そうね、僕はいつもそのまま食べちゃうかな!あとは生じゃなくても、コンロで炙って食べても美味しいし。」

なるほど、確かに生も良いが、火で殻を炙ってそこに醤油を垂らしても美味いだろう。
僕は会計をしながら、半分を生で食べて、半分を焼いて食べようと思った。


僕は他の売り場で、「鯖フィーレ5枚入り」も購入した。「鯖フィーレ」は要するに鯖を3枚下ろしにしたもの、ということらしく、確かに3枚に下ろされた鯖の身が5枚セットになっていた。値段は800円くらいだったと思う。

また別の売り場で、僕は鮮魚を眺めていた。せっかく市場に来たのだから生魚も買っていきたいと思ったのだ。しかし、生魚を選ぶのは特に難しい。商品にはどんな味なのか説明が書いていないし、多くの魚の名称は判読不能だったのだ。

「大きな金目鯛は煮付けにしても美味いし、塩焼きも良いかもしれない。でもさすがに大きすぎるな…。」
「あ、あそこにマグロの塊があるじゃないか。え?一個8000円…!やめておこう。」
「太刀魚か。美味しそうだけど、調理方法が分からないな。そもそもうちのまな板に乗らなそうだな…」

僕は頭の中で脳内会議を繰り返しながらいろんな魚を見て周り、結局僕が手にとったのは京都産の鯖だった。身がプリプリとしていてなんとも美味しそうだ。鯖は塩焼きにすれば素材のおいしさをダイレクトに味わえるから、今日はサバをサバいて塩焼きにしよう。そう考えて会計を済ませた。

注意深い聡明な読者であれば、僕がダジャレを言ったことよりも前にある事に気づいた事だろう。そう、僕はまた「鯖」を買った。ありとあらゆる鮮魚が揃う市場で、僕は「鯖フィーレ」と「鯖」を買ったのだ。結局、どんなに候補が多くても、人は普段からよく手に取るものを買ってしまうのだろう。せっかくなら他の珍しい魚を買えばよかったのに、市場の雰囲気に飲まれた僕は結局、誘われるように鯖と鯖を買ってしまったのだ。

僕はその時買った魚が両方とも鯖であったことを、夕食の時になって初めて知ることになる。それに気づいた時、思わず吹き出してしまった。鯖フィーレと鯖を並べて、なんとも言えない気持ちになった。
鯖くんも、きっと自分の隣に切り身になって冷凍された仲間を並べられて、なんとも言えない気持ちになったことだろう。それはまるで精神的ダメージを与える拷問のような光景だった。


僕は市場を出ると、魚介類を持ったまま敷地内にある食堂が並んだ建物に向かった。そこでは足立市場で仕入れた新鮮な魚介類を使った食事が楽しめる。

僕は店の前にあるメニューを眺め、その中でも海鮮丼が美味しそうなお店に入った。そのお店では旬の魚を使った海鮮丼を提供していて、季節によってネタが変わるらしい。1800円の海鮮丼と1200円の海鮮丼があり、僕は1200円の方を注文した。7種類のネタが乗った海鮮丼ということで、心を躍らせて待っていた。

店内には古いテレビが置かれていて、そこでは朝の情報番組が流れていた。「あれ?」と思って時計を確認すると、9時半。確かに、僕は朝に家を出て市場に来たから、今が9時半でも何もおかしくは無いのだが、僕は「昼ごはんでも食べるか」という気持ちでこの店に入っていたから、なんだか不思議な気持ちになった。

しばらく待っていると、隣のお客さんに海鮮丼が運ばれてきた。横目でそれを見ると、どうやらそれは1800円の海鮮丼らしく、商品名の「豪華海鮮丼」の名に恥じぬ、、非常に豪華な海鮮丼だった。
さまざまな魚が乗った海鮮丼の真ん中に綺麗なウニが乗っていて、しかもその脇にはアワビが盛られていた。僕も奮発して豪華な海鮮丼にすればよかったと心の中で呟いた。

その後、僕の元に豪華ではない海鮮丼が運ばれてきたのだが、それは僕の基準で言えば十分に豪華だった。マグロはトロ、赤身、中落ちの3種が豪勢に乗っていて、そのほかに桜エビ、イクラ、卵焼きも乗っている。白身魚も乗っていたのだが、それが何の魚なのか分からなかった。

一口食べてみて「これは美味い!」と思った。マグロは臭みがなく、旨味が凝縮されていて、トロは口の中でとろけるようだった。謎の白身魚は淡白な味わいだが、その奥に旨味を感じる。
極めつけはイクラだ。僕が回転寿司で食べていたイクラは何だったのだろう、と思うくらいプリプリとしていて弾力が強い。味も濃く、潰れた瞬間口の中全体に旨味が広がる。

一緒についてきた味噌汁はネギが浮かんだシンプルなものだったが、口をつけると魚介の旨味を感じた。もしや、と思って箸で底の方を探ると、魚の骨が入っていた。なるほど、余った魚の骨で出汁をとったわけだ。どうりで魚介の旨味を感じるわけだ。

魚を食べて、米をかき込み、味噌汁をすする。そんな作業を夢中で繰り返すうちに、ペロリと海鮮丼を平らげてしまった。


僕は足立市場を満喫して帰路に着いた。

毎朝、市場では何人ものプロが目を光らせ、何匹もの魚が取引されているのだろう。近場に数々の魚介類を扱う貴重な場所があるのに、僕は気にも留めなかった。まあ、日常の景色の中に溶け込んでしまっている場所は意外に多し、そんなものだろう。全てのお店や建物を気にして生きていたら疲れてしまうだろうし、自分にとって大事なものだけを気にしている方が生きて生きやすいものだ。

だが少しだけ視点を変えて普段の景色を見てみるのも良いだろう。皆さんも普段から見ている何気ない景色に注意を払ってみることで、何か小さな発見をすることができるかもしれない。

それがきっと毎日を彩り豊かにしてくれるはずだ。

ただ、少なくとも僕は、これから数日は鯖を食べ続ける、彩りに乏しい日が続きそうだ。

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