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「コミュニケーション活動」と「言語活動」

英語科教育法IIIの授業ログ。
話すこと(やり取り)の講義回。

自分が学習者として教室で日本語話者同士で英語を話すのが嫌いだったこともあって、話すこと(やり取り)の活動は授業者としても苦手分野だ。
授業準備の段階から2-3週間かけていつも以上に勉強したのだが、90分の授業でどこを話してどこを削ぎ落とすかの判断が難しかった。

最終的には、中部地区英語教育学会でも話題になった「コミュニケーション活動」と「言語活動」の差別化を中心に据え、教室でのやり取りの活動の展開を扱った。

学習指導要領では(話すことに限った話題ではないが)「思考力、判断力、表現力」を高める指導と関わらせながら、言語活動の在り方について指導手順を示している。(学習過程とされているが、実質的には指導手順と呼んでいいだろう)

外国語教育における学習過程としては,①設定されたコミュニケーションの目的や場面,状況などを理解する,②目的に応じて情報や意見などを発信するまでの方向性を決定し,コミュニケーションの見通しを立てる,③目的達成のため,具体的なコミュニケーションを行う,④言語面・内容面で自ら学習のまとめと振り返りを行うといった流れの中で,学んだことの意味付けを行ったり,既得の知識や経験と,新たに得られた知識を言語活動で活用したりすることで,「思考力,判断力,表現力等」を高めていくことが大切になる。

高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 外国語編 英語編, p. 15

これを言語活動の指導手順としてまとめ、以下の図を学生に提示した。今回の授業ログでは主に話すこと(やり取り)を念頭に置きながら、この「言語活動」についてまとめる。

目的・場面・状況の理解

左から順に見ていくと、まずは「目的・場面・状況の理解」から始まる。先生が「〜について話してみよう」「友達に〜を尋ねてみよう」と指示して話させるだけでは、「なんで?」「何のために?」という視点が欠けている。ただ、気をつけたいのは目的・場面・状況はそのauthenticity(本物のコミュニケーションぽさ)にこだわることが常に得策でもないだろうということだ。
また、個人的には「目的」「場面」「状況」の3つは、教室での指導上、対等と見ない方が良いような気がしている。より端的に言えば、「目的」を他の二つより優先的に設定したい。「何を目指して話せばいいの?」という疑問は出来るだけ持たせたままにしたくない。
加えて「今横にいるのは同級生の〇〇さんではなく、部活の先輩です」とか、「バスがもうすぐ来てしまうので、要件を伝えるのには1分しかありません」とか、そういう「場面」「状況」を付け加えることで学習者が意味のある「違い」を生み出す見込みがあるのであれば、付け加えればいいのかなと。あるいは目的だけではコミュニケーションの方向性が曖昧すぎる場合には、きちんと設定するとか。
「場面」「状況」が設定されていなくても、基本的に同じクラスの同級生と、普段の関係性の上で、目的に向かってやり取りを進めることは可能という意味で、「目的」は他の二つより優先される要素だと考えている。
(というか、場面と状況の違いがよく分かりません。ごめんなさい。何か重要な違いがあるのであれば、詳しい方教えてください。)

コミュニケーションの方向性・見通し

目的や場面・状況が理解されれば、自然とそれに合わせてどうやり取りを進めていくかを考えるだろう。というか、それが無ければ目的・場面・状況が理解されたとは言えないし、その後のコミュニケーションに影響を及ぼしていないということになる。
ただ、「コミュニケーションの方向性・見通し」を考える時間を明示的に取るか、それとも目的・場面・状況を伝えてすぐコミュニケーションに移るかは違いを生みそうだ。それは目的・場面・状況の中身にもよるだろうし、その言語活動の指導上の目的にも依存する。

コミュニケーション

言語活動の中に「コミュニケーション」が包含されており、その日のテーマに沿って、指定された時間話して終わるような「コミュニケーション活動」とは一線を画したものと理解できる。より正確に言えば、あるテーマに沿って指定された時間やり取りをするようなコミュニケーションだったとしても、前後に目的・場面・状況の設定、コミュニケーションの方向性・見通し、そして振り返りの機会があれば、それは言語活動と呼んで良さそうだ。

ただし、「目的」は実質的に言語コミュニケーションの結果として達成されるものであるということは確認しておきたい。つまり、「今日は5人の人と話したら席に着いてください」みたいなものは、「5人の人と話すこと」あるいは「(他の人より早く)席に着くこと」が目的になってしまって、それは言語コミュニケーションの中身とは無関係だ。

振り返り

これは私の思想が大いに反映された物言いだという自覚はあるが、ここまでの3つのフェイズは全てこの振り返りのためにこそあると考える。これは私が学生に模擬授業をやらせる理由と重なる。計画を立てて、やってみて、それを振り返ることが成長に繋がる。いや、「成長に繋がる」というよりは「継続的に成長できる力を身につける」と言った方がより正確だ。きちんと自分の思考・判断・表現を振り返ることが、それ以降の思考・判断・表現の質に良い影響を与える。振り返り方を知ることは成長の仕方を知ることになるし、振り返り自体の質も高めていくことで更に成長が促される

振り返る際に、その振り返られる対象が深い振り返りに耐え得る内容でないといけない。ただなんとなく話させてみて「はい、今の会話どうだった〜?」とか「今日、隣の人と英語で話してみてどうでしたか?」と問いかけるだけでは物足りない。「楽しかった」は大事な感想ではあっても、それだけで終わっては振り返りとして十分でない。
だからこそコミュニケーションを取る上で、その方向性や見通しを立てておくことが、後からそのコミュニケーションを振り返ることを助ける。「楽しい」「つまらない」などの感覚的なものだけでもなければ、単に「英語が出てこなかった」「発音が悪かった」「聞き取れなかった」という技能面の反省に終始することもない振り返りにするためには、目的(と場面・状況)に対してどのようにアプローチし、どの程度達成できたかという視点が欲しいのだ。そして、達成できた/できなかった要因まで掘り下げ、次はどのような方向性を考えるか、あるいはどんな方略が使えそうかという思考まで持っていきたい。更に言えば、コミュニケーションである以上、自分自身の能力だけに還元せず、相手との相互作用の中に要因を見出せるようになるともっと良いのではないだろうか。

授業者・学習者の好み

冒頭で書いたように私は学習者として日本語話者同士で英語で話す活動が嫌いだった。英語を話す力を伸ばしたいという気持ちはもちろんあったが、そのために日本語が通じる相手と(加えて、当時の気持ちを素直に書けば、自分より英語ができない相手と)英語で話すことを全く楽しめなかったし、ほとんど意義を感じられなかった。
ALTもいたが、ALTは私(達)を子ども扱いしているように思えて、それにも腹を立てていたのでALTと話したいという気持ちにもなれなかった。(話すことだけでなく、英語学習のために英語ネイティブの子どもが読むような絵本を読まされたりすることも嫌いだったので、子ども扱いするALTも同じく気に入らなかったのだろう。当時は今以上に、英語圏に生まれなかったという「不運」のせいで長時間英語を勉強しなければいけないことへの不満、英語母語話者へのルサンチマンに溢れていた時期だった。)

それでも教室の中できちんと話す活動はやってあげたいという教師としての気持ちは段々大きくなってきたし、その意義も感じられるようになってきた。
授業を準備している時、なんとなく気になってInstagramのフォロワー対象に「英語の授業で日本語母語話者同士で英語で話すことについて」尋ねてみたところ、7割以上の人が「好き」「大好き」と答えた。(論文を読め)
英語教員養成課程を卒業した私のフォロワーなので当然英語学習に肯定的な思いを持っている人は多いわけだが、それでもあの教室での英語での会話が「大好き」ということがあり得るのだというのは私にとっては驚きだった。

一方で、学部時代の後輩から「あの活動が嫌いすぎて、授業で話す活動ができない」という分かりみの深すぎるDMも来た。(なんならそのことに「俺だけじゃないんだ」と少し安心した)

私も根本的な部分では日本語母語話者同士での英語使用に対するネガティブな思いはまだまだ消えないと思う。だが、今回の授業で扱ったような「コミュニケーション活動」とは一線を画すような「言語活動」という形であれば、そこに「知性」「成長への期待感」を感じられて、当時ほど嫌いにならずに済んだかもしれないという気がしている。
教師としての目線で言えば、「英語で話させることに抵抗はあるけど、ちゃんとやれば力がつくだろうから、信じてやってみよう」ぐらい思えたら十分ではないだろうか。「丁寧に活動を組まない形でなんとなく話させることは信条の問題でできない」というのは、英語教師としてはある意味強みと捉えられるかもしれない。

また、今回の英語科教育法の授業では単なる「コミュニケーション活動」と「言語活動」を一つずつ体験してもらった後、「学習者としてどっちが好き?」と学生に尋ねてみた。すると、(意外にも)答えは半々に分かれた。
言語活動派の学生は概ねこの記事で書いてきたようなことの価値を感じてくれたようだったが、コミュニケーション活動派の学生は「気楽で良い」「どんな文法を使えばいいか明確で分かりやすかった」といった理由だった。
(後者の理由については、それが言語活動で実現できないということではないが)これはこれで学習者としての偽らざる思いである。
(上で述べたコミュニケーション活動苦手系教師の強みとは矛盾してしまうが)授業内での全てのコミュニケーションが「言語活動」の一環として行われなくても良いはずだ。授業内で英語を話すことへの抵抗感を減らしたり、シンプルに英語の発話量を増やしたり、既習の文法・語彙を使ってみたり、という指導上の目的に沿ってコミュニケーション活動として行われることは構わないだろう。
大事なのは、言語活動との違いを分かってやっていることだ、と割と何でも「分かってやってるならOK」主義の私は思う。

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