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教師教育者の役割に葛藤する日常

英語科教育法I第9回の授業ログ。
模擬授業は2巡目の最後。
前回は小学生を想定した学生が、今回は中学3年生(高校受験を控えた受験生)を想定した授業を展開した。

授業者としてのアイデンティティ

中学3年生を想定した授業だが、英単語を使ったBINGOゲームというポップな内容。単語リストからいくつか自分の好きな単語を選んでBINGOカードを作成し、先生がくじ引きで引いた単語を読み上げて、自分のカードにあれば丸をつける。BINGOが揃ったら、嬉しい!

単語リストには最初から単語の意味や「〇〇の過去形」などが書かれている。先生は途中で何度か単語の意味を生徒に聞く場面があったが、「答え書いてるのラッキー」とか「なんで答え書いてるのに聞くん?」とか「答え書いてあるから当てられても安心」とか、検討会で明らかになった生徒の感じ方は様々だった。

単語の意味を書いた上で生徒にも尋ねた意図としては、「小さい字で訳が書いてあるからちゃんとプリントを読んでくれてるかを確認したくて」とのこと。
なるほど。授業を見ながら、「書いてあるんだから聞く意味なくない?ミス?」と正直思っていたが、その意図なら理解できるし私にとって新鮮な考え方だった。

全体的に単語も易しめで、BINGOという活動の「軽さ」もあって、受験生っぽい空気はない。生徒役の学生たちは受験生らしく演じようと思えば演じられたと思うが、そうではない姿を見せる必然性がこの授業にはあった。前回の記事で言及した、授業の中身に端を発する子どもの振る舞いかどうかという点で言えば、どの学生も非常に自然な子ども役を演じていたと言える。

一方でその「軽さ」に起因して教室は緩み「(受験勉強で疲れているような子を想定していたので、)この時間寝たいな」と思っていた生徒も。そして、その緩みとは相容れない心理状態の生徒もおり「受験もあるし普通に授業を受けたい」「単語をやるならもっと間違えやすい単語をやってほしかった」といった声が聞かれた。

先生としてはまぁ想定内だったようで、BINGOの景品を用意しており、生徒達は(まんまと)ハイテンションで参加した。
先生の根底には「受験の空気を和らげて楽しんでもらいたい」という思いがあった。

そのような授業らしくない授業を構想し、模擬授業にぶつけてくるというのは、今回の先生役の学生らしい判断だった。
彼女は教員免許の取得こそ目指しているが、今のところ教師になるつもりはない。(教師の楽しさに目覚めて急に目指し始めないかなぁと心の奥の方で思ってはいる)
そんな彼女は英語が得意とは言えないかもしれないが、英語が好きで、英語で人と話すことに心から喜びを感じている。そういう思いから、英語を「勉強」っぽい営みから遠ざけたいのだろうと思う。

もちろん今回のような授業は年間の中で多くあるわけではないし、より学びを深めながらも「勉強」感を出さない工夫も出来ることは確かだ。
だが、授業者として振る舞う数少ない場は彼女にとって彼女のアイデンティティを表現する場でもある。私自身も自分を「教師らしい人」に仕立て上げることを諦めて、「出来るだけ自分のまま教師になる/教師であり続ける」ということを日頃から意識していることもあって、彼女の根底にある想いの溢れた授業に(教師教育者として)ちょっとした感動を覚えた。

「そんなこと言ってないで、ちゃんと一定の質の保たれた授業ができる教師を育てろ。そしてその力を客観的に評価しろ」と言われそうだが、うるさい。

悪気のない一般論の提示

私の英語科教育法で採用している対話型模擬授業検討会という手法は、生徒役を務めた学生が生徒としての目線で授業を振り返ることが肝となっているそこでの私の役割は基本的に検討会のファシリテーターで、いつかそれすら必要なくなれば検討会を眺めつつ、時々その方向性に口出しをする程度でいいと思っている。(断じて、楽がしたいわけではない)

もちろん学生の模擬授業はまだまだ拙い。現場経験の浅い私でも粗を探すまでもなく沢山の改善案を提示することは可能だ。しかし、あえてそれをしないのがこの「対話型」の特徴だ。
模擬授業や検討会の目的は学生が自分の授業実践を多角的な視点から振り返り、自らの授業観や教育目標を問い直すことだ。それに起因して授業技術の改善が生まれればそれはそれで良い。
だから私は基本的に指導技術・指導計画への客観的なコメントを検討会中に言わないようにしている。どうしても言うとしたら先生のWANTが実現できなかった時や、あることをきっかけにネガティブなFEELから脱出できなかった時に、そこへの助け舟というか、オルタナティブの提示として「こういうやり方もありだったかも」という程度だ。

それは教師教育者の私に限らず、模擬授業に参加・観察した全ての参加者に等しく求められることでもある。検討会の前には毎回そのことに触れ、「生徒役として受けた時の気持ち・思考を表明する形で授業を振り返ってほしい」という旨を伝えている。

だが、どうしても生徒役としての自分の感覚から離れて一般論的な意見を述べてしまう学生がいる(し、気をつけないと私もポロッとそういうことを言ってしまいそうになる)。
そこには何の悪気もないというか、むしろ先生役の学生の成長を願っての言葉であり、先生役も割と「なるほど」とその場では受け入れることも少なくない。だからこそ検討会中に1度、2度そういう場面が出てきても、それはあまり大きな問題にはならないように思える。
しかし、それを一つでも積極的に認めてしまうと、「でも、こういう生徒もいるし、こうした方が」「こういう場合は、この方法の方が」「そういう時は、こういう風にすれば」と無限に選択肢が提示されることを許してしまうことになる。
この英語科教育法ログシリーズでは何度も言及していることだが、省察を深めるためにALACTモデルの第3段階「本質的な諸相への気づき」を目指して模擬授業及び検討会を行なっている。
「本質的な諸相とは何か」「それに気づくにはどのようなプロセスを経る必要があるのか」はこれから私の研究テーマの一つになっていく見通しだが、少なくとも改善案を矢継ぎ早に繰り出すことは私の期待している省察にはつながらないだろう。

尚、「先生役の学生のために」という思い以外にも、「深いことを言いたい」「他の人とは違う視点のコメントを出したい」的な思いもあるかもしれない。
これについては、園部(2021)「何が現職教員学生を「学習者になること」から妨げるのか」が非常に示唆に富んでいる。

当該論文は教職大学院に所属する経験豊富な現職院生に焦点を当てており、私の見ている学生達とはかなり異なった集団ではある。
しかし、この中で現職院生が学習者役になりきれない要因の一つとして挙げられている「鋭く深い指摘をすべきという呪縛」についてはまだ教員免許を取得してすらいない私の学生たちの中にも同じ課題を抱えている者がいるように思う。

とはいえ、この類の発言は徐々に(割合的に)減ってきた気もするし、そういう発言があった時にも「それはつまり、〇〇さんが演じた生徒はそう感じたってこと?」といった問いを投げ返すことで一般論から生徒個人の経験の話へと一応戻すこともできる。

なお、今回の授業は、大学が「他の先生の授業を最低1回は見に行きなさい」と決めている授業参観期間に行われたこともあって、本学部のめっちゃ偉い先生が参観に来た(!)のだが、私は育ちが悪いので「参観に行きます」と連絡が来た瞬間に「模擬授業の生徒役をお願いしていいですか」と中学生役を半ば押しつけた。
大御所の先生に数十年の時を遡って中学生役を演じていただき、前の席の生徒にイジられ「うるせーよ!」と戯れる名演技まで披露していただいた。

一方検討会に入るとその先生からは全体的に「悪気のない一般論の提示」にあたるような発言が目立った。「こうしようとは思わなかった?」「こうした方が良いと思わない?」など。
私は(かなりの勇気を持って)それらのやりとりをホワイトボードに書かない判断をしたり、先生のWANTやTHINKを掘り下げる質問に置き換えたりした。
ただ、その先生の立場を考えれば、そして立派な英語教員を育てたいという強い思いを持って、何の実績もない私に英語科教育法8単位を任せるという決断に関わったことを思えば、貴重な授業参観の機会に学生に多くの視点を与え、今より少しでも広い視野を持てるように、そして次はもっと上手に授業ができるようにしてやりたいという思いを持つことは当然と言える。

教師教育者の我慢

このことから私も改めて教師教育者としての自分の役割を内省した。
確かに技術的熟達を考えれば私のやり方は非合理的かもしれない。私自身もそこへの迷い・悩み・モヤモヤは常にあると言ってよい。
元々対話型模擬授業検討会を始められた渡辺貴裕先生は東京学芸大学の教職大学院生との取り組みとしてこれをやっている。こういう言い方はアレだが、やはり開放制教職課程の学部2,3年生と、学芸大の教職大学院生ではそもそもの授業スキルや授業を捉える視点の多様さ・深さが全然違うだろう。

一度そういう思考に入ると、「学芸の院生にも学部生や教員として技術的に熟達した期間があったはずで、その授業技術があって初めて対話型が実りあるものになるのではないか。ということは、やはりまずは基礎的な指導技術をきちんと整えてあげた方がいいのだろうか」という方向に進むのが私の常だ。
そんなことを考えたのも対話型をやると決めてから、1度や2度ではない。毎週のようにふとした時に同じことを考えているぐらいだ。

そしてそれに通ずる思いは学生の方にもあるのではないかと思う。
「生徒がどう感じたかとかより、上手く授業する方法を教えてくれよ」とか「悪かったところ全部直すんで全部言ってください」とか、今のところ授業コメントにはそういう類のものはなかったと思うが、内心そういう思いもあるかもしれない。特に模擬授業担当週の前1週間ぐらいは準備をしながらそう思うんじゃないだろうか。
(実際「悪かったところ全部直すんで全部言ってください」は、教員採用試験対策として教採に受かるための模擬授業の練習を毎週している4年生の学生に、初めての模擬授業後に言われた言葉だ)

それでも、毎回このことを考えるたびに「いや、今のまま行った方がいい。ここで楽な方に流れたらダメだ」と言い聞かせるに至る。学生の側に授業者としてのWANTやFEELが生まれ、それに基づいて指導技術を吸収したいと思えばそれは歓迎すべきことで、私も喜んで学生のまだ持っていない選択肢を提示するだろう。
しかし、教師としての願いや問題意識無しに良い授業を作るための正解らしきものを教師教育者が与えてしまうことは、結局のところ学生の教師としての成長に繋がらない

私の教える大学の教職課程では英語教育プロパーの科目は英語科教育法IからIVまでの4つ(8単位)しかない。私のいた教育学部には英語教師になることを想定した英語学の授業や英米文学の授業があったし、15週間音読指導だけを掘り下げながら学ぶこともできた(それらの授業が面白かった・質が高かったとは言っていない)。
教師に身につけてほしい(つまり私自身も身につけたい)知識やスキルなんて挙げ始めたらキリがないのに、今の私が目の前の学生達に教えてあげられるのはたったの90分×60回しかないのである。3年生に至っては30回しかない上に、既にそのうちの10回が終わろうとしている。
そういうリアルな数字を意識するとついつい焦りが生まれて「教える」という行為に走りたくなるのだが、そうではない。良い授業者としての知識・スキルを広く満遍なく身につけるには明らかに時間が足りない。(ちなみにそれは4年間英語教育にそれなりに浸かれる教育学部だとしても全く足りない)
であれば、一人一人の問題意識・関心をスタートにして、自ら学び続けられる教師になってもらうしかないのだ。

「教師」という漠然としたイメージを思い描いて、そこに自分が適合していくことを目指すのではない。
自分が自分のまま、自分のアイデンティティと不可分の問題意識や(英語)教育への思いを持ちながら、自分らしい教師像を築いていってもらいたい。

書きながらモヤモヤ・グルグル考えていたら、奇跡的に「授業者としてのアイデンティティ」に帰ってきたのでここで締めておこう。

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