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学習者の知識と思考を再現する

英語科教育法I第8回の振り返り。
例の如く模擬授業と対話型模擬授業検討会がメイン。
今回はその模擬授業の生徒役のパフォーマンスに焦点を当てる。

模擬授業で評価されたりアドバイスを受けたりして成長が期待されるいわゆる「主役」は当然先生役を務める学生なのだが、その先生役の学生が模擬授業とそのリフレクションを通して(どれだけ)成長できるかは、生徒役の学生のクオリティに大きくかかっている。生徒役が大人(大学生)の自分のまま模擬授業を受けてしまうと、気持ちの乗らない活動にも大人の対応として乗っかってあげたり、先生の説明が分かりづらくても自分の知識で補って理解したことにする。そのような環境での模擬授業が実際の子どもたちに教えるスキルに繋がるかと問われれば、既に教壇に立たれている先生方は揃ってNOと答えるだろう。

また生徒役を務める学生からしても「生徒はこういう時にこんなことを感じるんだ」「先生はスイスイ授業進めるけど、私の演じてるこの子、その前のところからちょっと理解できてないな」など、学習者目線のいろいろな気づきに出会うことができ、自身の授業力につながる。

この辺りは渡辺貴裕先生『授業づくりの考え方』を大いに参考にしている。

「教育実習に行ってみたら全然通用しなかった」「実際に先生になってみたら模擬授業の経験なんて全然役に立たなかった」というのでは意味がない。特に私のように英語科教育法Iの半期のほぼ全てを模擬授業に振っているような教師教育者からすると、学生が教育実習先や職場でそんな思いを持つ様では最悪だ。貴重な英語科教育法8単位のうち2単位をほぼ無駄にしたに等しい。

というわけで私はとにかく生徒役のクオリティにこだわることを学生に求め続けてきた。

ゲストを入れて激変した生徒役のDO/FEEL/WANT

私の務める北陸大学国際コミュニケーション学部では英語教員免許取得を目指す学生はまだまだ多くなく、英語科教育法Iを履修している学生は(聴講の学生含め)わずか5名。
模擬授業としてこれでは足りないわけではないので、生徒役4名でしばらくやっていた。

ある日、教職を取っていないある学生が(色々あった流れで)私の英語科教育法に模擬授業の小学3年生役としてゲスト参加してくれた。

その際のログはこちらの記事にまとめたのだが、模擬授業4回目にして突然上がった児童役のクオリティに驚かされ、主にそのことを振り返っている。

教職を取っていない学生が生徒役の空気を一変させたことについて、教職を取っていないからこそ「授業はこう受けるべきもの」みたいなある種偏った授業観を持っていないこと、「自分の模擬授業の時に同じことをされたら困る」という打算的な遠慮がないことが大きな要因だろうと考えている。(もちろんその学生の性格やスキルも大いに手伝ってのことだが。)

そこで味を占めた私は、英語技能科目で担当している学生や、この授業の履修者の友人など本来の受講者以外のゲストを毎週募ることにした。
それ以来ありがたいことに毎回3名以上、多い時には6名ものゲストが参加し、もはや対話型模擬授業検討会を行うにはギリギリの人数にまで増えた。

そしてゲストを投入して以来(受講者にも非受講者にも)目立っているのが、「授業の進行を無視/妨害」しようとする学習者の動きだ。
私語は当たり前で、中学1年生は配られたプリントで紙飛行機を折り、高校2年生は授業中にメイクを始める者までいた。(たまたま印象的だったシーンを書いてみて気づいたが、どちらも同じ学生だったw)

私自身は、自分が学生の頃にここまで徹底した生徒役をやったことはなかったし、やられたことはなかった。出来るだけ生徒らしくやろうと思ってはいたが、どこか大人として行動にブレーキをかけていたのかもしれない。

この学生たちの生徒役としてのふるまいを「さすがにやり過ぎかなぁ」と思ったことも何度かある。というか、これを書いている今もまだ少し不安に思っている。だからこそ書いているのかもしれない。

授業が「荒れる」ため、先生役の学生としては「授業をどう構成するか」ということよりどうしても「生徒をどうコントロールするか」ということに目が向いてしまうのではないか、と。
そんな心配をしながらも、今のところ私は生徒役の学生にブレーキをかけるつもりはない。(このnoteをここまで読んだ君もこれまで通り生徒役に励んでほしい)
その理由は大きく2つある。
まずは、それらの「問題行動」が「あいつの模擬授業を荒らしてやろう」という同級生へのイタズラ心で行われているわけではなく、授業の中にそういった行動を起こさせる原因が確かにあるからである。
そして、もう一つはその行動の原因を対話型模擬授業検討会で振り返れているからだ。

英語科教育法Iは教職希望者が英語の授業を作るということについて初めて学ぶ授業だ。そこでいきなり模擬授業をするのだからそう上手くいくはずはない。生徒からすると、スムーズに進まない授業にイライラしたり(FEEL)、何のためにやるか納得できていない活動をやりたくなかったり(WANT)する。その気持ちの表出として、プリントを適当に終わらせて落書きをしたり、メイクをしたり、紙飛行機を折ったりする(DO)。

今のところ模擬授業で起きているいろいろな問題行動(DO)にはきちんと根拠(FEELやWANT)があるのだ。
少なくとも曖昧な指示も無味乾燥な活動も大人の対応でやってしまう模擬授業よりずっと良いし、それが検討会できちんと振り返ることができている間は問題ない。

生徒のTHINKが難しい

これまでに紙飛行機を折ったりメイクをしたりしてきた学生は小学生を演じた回の振り返りで次のように書いている。

今の自分の価値観ではなく、小学3年生としての価値観で授業を受けることによって自分の中で、ある程度子どもの行動の予測が出来るようになると感じた。

学生の授業コメントより

彼女の毎回の模擬授業での生徒役としての振る舞いを見ていると、コメントには非常に納得感がある。

一方で、彼女に限らず全ての学生にとって、特に英語教師を目指す学生にとって、大きな課題として突きつけられているのが生徒のTHINKを想像して演じることだ。

今回の模擬授業では中学1年生の過去形の導入を扱った。先生役の学生は前回の模擬授業で当初の計画と違う発問をしてしまったことで授業が一旦ストップしてしまった。その経験や他の学生の模擬授業を受けた経験からもう少し柔軟に授業をやろうと考えるに至った。

生徒の流れに頼るのも、楽しい授業を作る際に良い方法だと感じた。

学生の授業コメントより

そこで今回は生徒から出てきた考えや答えを拾って授業を行おうと考え、過去形を塾で先に習っている生徒の知識を共有するところを出発点にして過去形の導入をすることを考えた。

「過去のことを言う時、どういう単語を使うかって知ってる人いる?」と問いかけると、ある生徒が「goがwentになる」と返した。
先生はそれを取り上げ、その後のペアでの会話や1文ライティングもこの"went"を使わせるように進めていった。

この記事を読んでくださっている方の多くが英語教育に関心のある方だと仮定すると、おそらくほとんどの人が「過去形の導入でいきなりwentはまずいでしょ」とか「それは攻めてるね〜」とか思うだろう。
もちろん私もそう思うし、実際後から指摘はしてしまったのだが、今回注目したいのは生徒役の学生たちの振る舞いだ。

一人の生徒から出た"went"という単語、そしてそれが"go"「行く」の過去形「行った」を表すということを聞いた生徒達はまるで何も混乱が生まれていないかのような様子だった。

私が生徒役ならすかさず「え、過去の話になると全部動詞変わるの?!じゃあ2倍単語覚えなきゃってこと!?もしかして未来も違う単語!?」ぐらいパニックになって騒ぐだろう(これはこれで色々わかってるやつの振る舞いにも思えてきた)。
先生もその混乱をあえて狙って授業を展開することだってできる。

「お、かわむら君、良いことに気づいたね。英語で過去のこと言う時には全部単語変わるのかな?めっちゃ大変そうだね。どうする?」

「それは無理〜〜。英語バカすぎ〜〜」

「でも実は、goがwentになるのはすごく珍しいパターンで、基本的には今まで習ってきた単語を、あるルールに従ってちょっとだけ変えるだけで良いんだよ」

みたいな。

模擬授業を一緒に作り上げる集団として次のステップに進むためにというか、「生徒指導」ではなく「教科指導」が模擬授業の主眼に置かれるために、生徒役は(これまで通りFEELやWANTを大切にしながら)THINKにももっと目を向ける必要がある。
冒頭で紹介した渡辺(2019)『授業づくりの考え方』から言葉を借りると「知っている・分かっていることを保留する」(p. 61)ことが大事だ。
これはなかなか難しいのだが、これを考えられるようにならないと教師を目指す学生が生徒役を演じるということの一番の意義を満たすことができない。
授業を作る際に「何をどの順番に教えるべきか」を考える際、指導案をググるのではなくて、「生徒達は何を知っていて、何を知らないのか」「今日習うことを通じてどんなことを考えるのか」ということを考えられるようになってほしい。

子どもっぽい振る舞いをすることについて

ここまで、子どもらしいFEELやWANTに起因するDOを私は(多少の迷いもありながらも)肯定的に捉えていると述べてきた。

ここで、上に引用した『授業づくりの考え方』61ページの続きを更に引用する。

模擬授業で子ども役をするとなると、脈絡のないとんちんかんな答えを言おうとしたり、「先生、〇〇さんが教科書開いてませーん」と叫ぶといった「子どもっぽい」ふるまいをしようとしたりする人がいます。しかし、そうした「ふり」をすることが子ども役になるということなのでしょうか。

渡辺(2019, p. 61)

今までのところほとんどの学生の生徒役は、確かに子どもっぽいふるまいを含んだものではあるが、前述の通り授業の中身に端を発するふるまいの範囲内だ。
授業がつまらないから紙飛行機を折るし、やる意味が分からないことをやらされるからメイクをする。

英語力がつく/つかない以前に、「なぜ英語を勉強するのか」「なぜ今日この活動をするのか」への納得感もなければ、そんなことを生徒が考えなくて良いような「楽しさ」もない授業を撲滅したいと思って私は英語教師を育てる仕事を志してきた。
そんな私だし、学生もまだまだ英語教育者として走り出したばかりだし、今の時点では「英語の授業として構成が上手いか」「その授業を通して英語力が身につくか」ということ以上に、「授業を通して生徒のFEELをどうポジティブにできるか」「生徒のWANTを読み取り、あるいは意図的に生み出し、先生のWANTとの兼ね合いも考えながら楽しい授業にできるか」を大事にしたい。
そういう意味では、根拠のある子どもっぽいふるまいである限りは私は大歓迎だ。

(「大学の教員がそんなヌルいことを言っているから日本人の英語力が…」と数年前から私の心に定期的に通ってるかと思えば、最近は完全に棲みついてしまった「イマジナリー・ニホンジンノエイゴヤバイヨオジサン」の声が聞こえてくる。うるさい。)

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