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読んで終わりにしないリーディング指導

英語科教育法III第6回。
今回はリーディングについての講義回。
前々回はPre-ReadingからReadingまでのところにフォーカスし,今回はReadingからPost Readingまでの流れを「リテリング」に注目して整理。

佐々木(2020)『リテリングを活用した英語指導』の第1章を全員が,第2章から第6章を1人1章ずつ読んできて,報告してもらった。

「報告用の資料等の作成は任意」としていたが,全員が私の想像よりずっとハイクオリティな資料を用意してきてくれた。めちゃめちゃ忙しい中で教職を取っている学生たちのこの真摯な姿勢が素晴らしい。

学生の報告の内容は基本的に上掲の書籍に即しているのでその中身は特にここでは扱わない。
ここでは,リテリングという活動についての私なりの捉え方を残しておこうと思う。授業で学生にも話したことではあるが,時間をとってゆっくり書けるnoteなので,授業よりもう少し具体的に書けそうだ。

リテリングの目的が欠けがちになる

上掲の佐々木(2020)でも紹介されている一般的なリテリング活動として,クラス内の生徒同士でペアを組んでお互いにリテリングを言い合うというのがよくある。そういう活動をするとき,何のためにリテリングをするのか,そして聞くのかという「リテリングの目的」はどう考えられているのだろうか。
自分が(他の人にretellできるぐらいまでじっくり)読んだ英文について,他の人のリテリングを聴きたいというモチベーションは,少なくとも私には皆無だ。よって,同じく相手に私のリテリングを聞かせたいという思いも基本的には生まれない。
リテリングを話す側/聞く側それぞれに目的を持たせるための工夫としては,佐々木(2020)に紹介されている活動も含め,いくつか考えられる。

ジグソー法を活用する

検定教科書の英文の多くは1つのUnitの中で4つぐらいのLessonに分けられている。その特性を活かしやすいのがジグソー法を活用したリテリング活動である。
各Lessonに対して数人のエキスパートを割り当て,そこでリーディングを深めてリテリングの準備をし,それぞれのLessonのエキスパートを集めたジグソー活動としてリテリングを言い合う。そうすると,ジグソー活動の際には読んだことのない英文のリテリングを聞くことになるので,それなりの動機付けには繋がり得ると予想される。

ただ,一見シンプルかつアクティブで良さそうに見えるこの活動には結構難しいところも多い。
まずは中学・高校の英語授業の在り方として現実的かという点だ。複数の英文が1つの教室の中で同時に読み進められるとすると,教師はどのように立ち振る舞う必要があるだろうか。当然ながら黒板を背にあれこれ話す時間は最小限に限られるだろう。
この指導を実際に遂行するためには各エキスパートグループの生徒たちが協力すれば教員の助け無しでほとんど英文の内容を理解できる必要がある。基本的には生徒の協働的な読みで理解を深めてもらいながら,教員は時折各グループに介入して躓きを整理する。そのためには教師が全ての英文についてあらかじめ深く理解しておく必要があるし,エキスパートグループがエキスパートグループたり得るために学習者に深く理解させるだけの力が必要だ。

加えて,英文をいくつかに分割することがどこまで妥当かという点も気にしたい。全く関係のない英文や,同じか類似のテーマについて書かれた別の文章であればそれぞれの英文に対するエキスパートグループを作ることに問題はないが,一続きの長文をいくつかのパートに分割してしまうと,場合によっては文脈の不明瞭さに起因して極端に読みづらくなってしまう可能性がある。
とは言え、それを乗り越えられるだけの力のある学習者集団と教師が揃えば大きな問題にはならないかもしれないし,また他の生徒のリテリングによって文脈が明らかになって意味が分かったというのは,それはそれで面白さのある活動でもあるかもしれない。

本文の内容の再生に+αの要素を足す

リテリングの活動のゴールは基本的には本文の意味にフォーカスした内容の再生だ。そこに本文の内容に関する個人の感想だったり,本文の内容から発展させたリサーチの発表だったりを追加することで,同じ本文のリテリングでも内容が変わってくる。

個人の感想もリサーチの発表も、どちらも有益な方法になり得ると思うが,もちろん課題もある。
まずリサーチの方については調べ学習の時間の確保等,英語の指導としての難しさを超えたハードルがあるだろう。また,リサーチに時間を割けば割くほど、もとの英文から離れてしまう。そして離れれば離れるほどおそらくリテリングをする時にはもう英文の内容は頭になかったり,もはや話すモチベーションも(結局)なくなってしまうだろう。

それに比べて個人の感想を付け加えさせるというアイデアは実施可能性が高そうだが,一方で授業で読む英文に対して「感想」を持たせられるかというハードルは意外と高い。
読解力を付けることだけを目的として無機質に英文読解を進めていくような授業ではなかなか感想は生まれてこない。最後に感想付きのリテリングをさせるというゴールがあるのであれば,生徒がそれぞれ多様な感想を持てるような読みを実現する授業を構成する必要がある。

言語表現に対するこだわりが薄れる

「リテリング」はそれと類似した活動「リプロダクション」と区別される。リプロダクションは英文の中で実際に使われいる表現を使用して英文の内容を再生する活動だ。
(本文の全体を再生するわけではないという点や,本文そのもの以外の資料を用いることもあるという点などから「音読」とは区別される。)

リテリングをリテリングたらしめている要素の一つが「パラフレーズ」だ。本文の内容を本文と異なる単語・表現を用いて再生することが求められる。そのパラフレーズを求める頻度を難易度調整として使うこともある。
音読・リプロダクションから自己表現までをつなぐ橋渡しとしてリテリングが重用されるのはまさにこのパラフレーズというプロセス故だと考えていいと思うのだが,一方で何でもかんでも「別の単語・表現に置き換えてみよう」としてしまうと、そもそもなぜ元々の英文ではその単語・表現が使われているのかという点への眼差しが育てられない恐れがある。

と言っても、これに対する反論(?)は簡単に二つ出てくる。
一つは、「そういう指導をするタイミングも作ればいいじゃん」というもの。100%同意する。
もう一つは、「そもそもそんな指導してないよ」というもの。日本の英語リーデイング指導なんてほとんどそうじゃないだろうか、悲しいことに。
国語の教科書の文章には筆者の名前や略歴なんかも載っているのに、英語の教科書の英文は筆者が誰なのか分からないし、分からなくても困らない程度の「読み」しかしていないのだ。このことに対する不満はまた別の場所で言語化するとともに、大学の4技能の授業で実践例を作っていきたいところ。

「英語は話せないと意味がない」という価値観の植え付けになる

リテリングという活動は読んだり聞いたりした内容を書いたり話したりして再生するものだが、この活動に価値を見出す英語教育者の多くはやはり「読むこと」を「話すこと」に繋げることを目指したいのだろう。英文を読んで終わりにしないという点ではこの意識はとても大事になる。
一方で、英語の授業に(リテリングに限らず)「話すこと」に繋がる活動ばかりが溢れることに対して私はやや後ろ向きだ。

もちろん、私が高校時代に受けてきたような(正確には、受けることを拒否し続けたような)50分間ただ日本語の説明を聞き続ける授業に比べれば生徒が実際に話す時間があることは素晴らしい。
しかしその反面、話すことがコミュニケーションの最頂点かのように思われている節があるような気がしてならない。

これまでに出会ってきた生徒や学生の中にも「結局英語って話せないと意味ないじゃないですか」と言う人は多い。確かに話すという行為は4技能の中でも最も「派手」だし「かっこいい」と思われるかもしれない。何よりも役に立つ場面が想定しやすいのかもしれない。そして、その人にとっては話せないと意味がないということであれば十分納得できる。
しかし、それを全ての英語学習者に当てはめてしまうのは危険だ。我々の周りには口下手だけど聞き上手な人、話すと早口だったり話がゴチャゴチャしたりして分かりづらいけど文章は分かりやすく書ける人など、話すこと以外のコミュニケーションを得意とする人はごまんといる。
また、私は英語を話すことについてはかなり億劫だと感じるタイプで、一方英語の本を読むことは(まぁそりゃ翻訳があれば翻訳がいいなと思うけど)あまり苦じゃないし、近頃は全く書いていないが英語で修士論文やら大量のエッセイやらを書いた経験から書くことへの心理的ハードルもあまり高くない。そして何よりそのおかげでイギリスで修士号を取れたわけで、読むことや書くことに対して「意味ない」など1ミリも、1ナノも思わない。

英語を「話すこと」に外国語教育に関わる人間の関心が向きすぎているということに関わって、「四技能」という言葉はほとんど「話す」「聞く」の二技能を念頭に置いているという阿部公彦氏の論考も以前こちらの記事で紹介した。

複言語主義の考え方に立脚すれば、まず外国語教育が英語だけに偏っている時点で一定のナンセンスさを一生拭えないのだが、それと同時に「話すこと」への過剰な憧れやコンプレックスを生み出すことも外国語教育としては避けたい。

せっかく英文を一人で静かに読み込んで、内容を深く理解して、自分なりの感想を持ったり、もっと周辺分野を調べたいという気持ちになったのに、それを無理矢理、その英文の良さを本当に理解しているとも限らない隣の席の同級生に対してリテリングすることを強いられるなんて、結構苦痛じゃないだろうか。
沁みる映画やドラマを観た後、すぐ友達と感想を共有したい人もいれば、しばらく一人で静かにしたい人もいる。当たり前だ。
その当たり前が英語学習・英語教育になると何故か忘れ去られる。

リテリングの授業、楽しいの?

最後に私がリテリングを用いた英語指導について一番気になっているのは、そもそもその授業って楽しいの?ということだ。

英語科教育法の授業では多くの学生が「自分の受ける英語の授業でもリテリングをやってみたい」という感想を持ったようだが、私は実はあまりそう思わない。
何故ならあまり楽しそうじゃないからだ。
「楽しそうじゃない」と感じる所以はもうここまでに約4000字に渡って書いてきたことがほとんどだ。
(逆に言えばあらゆる課題をそれなりに乗り越えながら楽しくやれるのであれば、私もやろうかなと思うものではある)

もちろん英語力を付けるためにはリテリングを上手く活用することは得策だろう。そして、英語の先生を目指す学生たちは当然高い英語力を自分自身に求めるわけで、「力が付きそう」だから自分もやりたいという気持ちはよく理解できる。ただ、その「力が尽きそうだからやりたい!」というピュアな気持ちが教室では落とし穴になる。
運動でも英語以外の勉強でも何でもいいから、他のことに置き換えて考えてみればよく分かる。

私は一応ジムに通って筋トレを定期的にやっていたのだが、正直言って最近は本当につまらなくてダンベルを触ってすらいない。やれば筋肉が付いたり脂肪燃焼に繋がったりすることは百も承知なのだが、やりたくない気持ちが圧倒的に勝る。寝たい、食べたい、痩せたい。

そんなんならジムなんて辞めちまえと思われても致し方ないのだが、私の通っているジムには筋トレや有酸素運動のマシーンスペースがある以外に、スタジオでの様々なレッスンがある。そこで大勢で集まってインストラクターさんにリードされながら色々な運動ができるのだ。

ラガーマンみたいな体型をしながらも本当は踊り手さんに憧れている川村はそこで「アイドルダンス」と「ヒップホップ」のレッスンに妻と一緒に毎週出ている。これが楽しくて仕方ない。これなら運動も継続できる!と思えている。

「力がつく」「役に立つ」という理由だけで楽しくもないことを強いられると人はそこからどんどん離れようとする。
一方、力の付き具合では多少劣ったとしても楽しくやれるのなら継続できる。

力を付けることだけを求めて楽しさを捨ててしまうと、結局力を付けることに繋がるあらゆるトレーニングを忌避してしまう。
一定数の英語がそこそこ得意な生徒を育てると同時に、「もう一生英語なんて勉強しない」という生徒も育ててしまっているとしたら、私は公教育における英語教育としては失敗だと思う。どう考えても学校英語教育だけで「英語力の完成」などあり得ず、それならば卒業後も自分なりのペース、自分なりのやり方で英語を学び続けられる学習者を育てることを目指したいと考えるからだ。

英語教師や英語学習者は多くの場合、英語の力を付けることを喜びだと感じるし、そこに大きな苦痛などないことがほとんどだ。

その感覚を相対化し、色々な学習者の存在を意識できるようになることこそが、対話型模擬授業検討会をベースとした英語科教育法の意義とも言える。

ということで、次回ReadingからPost-Readingに焦点を当てた学生の模擬授業。

楽しませてほしいな!(ハードル爆上げ)

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