「計画された偶然」という考え方
学校のキャリア教育って,生徒に「やりたいこと」を見つけさせることに偏ってきてない?という話を一つ前の記事で書いた。
一方で「やりたいことを見つけて,とりあえずそれをやってみよう」とか「目標を持って,それに向けて努力してみよう」とか,そういう発想が全くもって間違いだと思えない。
計画された偶然 = Planned Happenstance
事実私は割と小さい頃から「やりたいこと」ばっかりやるタイプで,特に20歳辺りからのここ5~6年は,「やりたい度」に小さくないムラこそあれど,割とやりたいことを頑張ってやってきたという自負がある。
もちろんキャリアについて死ぬほど悩みまくった時期もあったが,それまでの一つ一つの努力や決断,時の運が絶妙に重なって,今かなり幸せにキャリアを築き始められている。
そう考えると,「別に気を張らなくてもいいよ。好きに生きよう」とばかり言うほどの勇気は自分にはない。比較的気を張って生きている方だという自覚がある以上,これはもう仕方ない。
では,「努力」とか「目標」とか「やりたいこと」をどう捉え,どう言語化すればいいのか。前掲の記事で紹介した児美川(2013)内で引用されたこちらの本に手を伸ばした。
人生は偶然の連続で,事前に立てた数年規模のプランなんてほとんど思い通りにはならない。だけど,その偶然を機に人生を良い方向に動かすには自分自身の主体的な行動や判断が必要だ。
人生は完全な計画で出来ているわけでもなければ,全て偶然で出来ているわけでもない。
計画された偶然 = Planned Happenstanceという考え方は,多くの大人にとっては当たり前のことにも思えるが,中学生・高校生にはある程度の意外性を持った話として受け取られるかもしれない。
胡散臭さを倍増させる「練習問題」なんかも相まって薄っぺらい自己啓発本みもあるが,中身はそれなりにまっとうで,2時間程度でサッと斜め読みできるのも良い。週明けから学級文庫に入れる予定。
何かに向けて努力することは無駄か?
生徒の何かへのチャレンジを後押しするのは、重要な「運」や「偶然」をきちんと自分の人生に取り込むためだ。
身の回りで起きていることのほとんどは偶然で、そのほとんどを無視して生きているが、その中に時々混ざりこんでいる価値ある偶然をきちんと拾ったり、あるいはたまたま拾った偶然を価値あるものにしたりするのは、結局のところ主体的な判断・選択や行動だ。
生徒たちには「やりたいことを見つけろ、夢や目標を持て」と強要するよりも、「とりあえず何かを一生懸命頑張って、可能な限り人と関わろう」と伝えたい。
この,「可能な限り人と関わる」という部分が,何かを頑張ろうとすることと同等かそれ以上に大事だと感じる。
自分の担任している生徒の中に「人知れず頑張って,気づいたら成績が伸びてた,って感じになりたい」というタイプの生徒がいる。実現できたらそれは結構かっこいいことだし,やはり思春期,勉強を頑張っているということを周りに知られるのも少し恥ずかしいらしい。
ただ,ちょっと勿体無いとも思ってしまう。まだ彼は陰で頑張っていることを僕には教えてくれたから勉強の効率を上げるようなアドバイスをしたり,こっそりやってきたワークを見たりできるが,本当に一人で頑張っている人には他者からの援護がない。
「あいつは口だけだ」と思われては本末転倒だが,何かに取り組んでいることを外に発信しておくことはその取り組みへの手助けや思わぬ角度からの気づきを得る機会に繋がり得る。
私が(ほとんど誰からも求められていない)noteを細々と書いていることもそうだ。その大前提には書くことが楽しいというのがあるが,書いて発信していれば誰かの目に止まって批判的・建設的なコメントがもらえるかもしれないし,読んだ本の著者と繋がれるかもしれない。
実際,学会で発表したことを簡単にnoteにまとめて書いた際には,その中で引用している論考の著者の方にたまたま記事を見つけていただき,twitterでリアクションを頂いた。学会当日にはその先生には聴いてもらえなかったのだから,こんなラッキーなことはない。
まぁこのこと自体はまだ何にも繋がっていないのだが,いつ何に繋がるか分からない。
ここまで書いてようやく気が付いたが,この話,"Connecting the Dots"だ。
ただし,本書にはごくごく一般人のキャリアに関する体験談が多く収録されており,一部の大成功を収めた人間に限らず,何かに取り組むチャンスを与えられている全ての人に関係する話として読める。
「自分の作った会社クビになって,ピクサー作ったら,なんやかんやあってまた元の会社に戻った」って,流石に中学生・高校生が自分の人生に当てはめて考えるにはピンと来ないだろう。
教師は目の前の生徒に対して「私は教師になりたいと子供の頃から思っていて,教育学部を目指して勉強して,4年間頑張って教師になったんだ」などと自分のキャリアを単純化した話をするよりも,もっと人生の「マクロ」に影響した「ミクロ」な出来事を切り取って話してみてはどうだろう。
スタンフォード大学の卒業式ほどの舞台は用意されないにしても,ちょっとした講演会の後の振り返りの時間や,1年間担任したクラスの最後のHRなど,それなりに生徒にそんな話をしやすいタイミングはあるだろう。
夢や目標を持つ生徒・持たない生徒
夢や目標を持てないでいる生徒も沢山存在する学校という場所では、第8章にある「ベストを尽くすのに、明確な目標を持っている必要はない。」という考え方を大事にしたい。
夢や目標を持っていないことが悪いのではない。どちらかというと,無気力に生きていることに問題がある。そこが履き違えられがちだ。
「ボーッと無気力に生きているのは夢がないからだ。夢を持て」というのは間違っている。順番が逆だ。無気力に生きているから,夢や目標などいつまで経っても生まれてこないのだ。
教師としては子どもが夢や目標を具体的に持っていればいるほど指導がしやすく授業も聞いてもらいやすいという事情もあり,夢や目標を持たせたくなる。そのことの問題点は前掲書でも大いに語られている。
残念ながら21世紀の日本は本当に生きるのが大変だろう。そのことの責任は完全に大人の側にあり,子ども達は被害者でしかない。
しかし,大変な状況でも自分が生きるためにやれることはやってほしい。そのために重要なことは,夢や目標を持つことではない。目の前のことを一つずつ一生懸命やっていくことが大事だ。
そのことを中学生・高校生の段階で理解し,徐々に自分の人生の「軸」を見つけていければいい。
そして夢や目標を持っている生徒には是非この本をパラパラとめくってほしい。
その一つの夢に固執する必要がないこと,いつか夢破れる日や諦めなければならない日が来るかもしれないこと,そしてそれでも人生はそれだけで不幸なものにはならないことを予め知っておいてもらいたい。
ついでに『プラダを着た悪魔』も観てみるといい。ちょっと中3男子にはオープニングの刺激が強いかと思い,学校で上映会をしていいものか迷ってはいるが。
ついでに学級文庫にもう一冊
一つ前に読んだ『キャリア教育のウソ』を書いた児美川孝一郎氏の本。
中学生でもなんとか読めそうな平易な文体で書かれているこちらを学級文庫に置いておくことに。
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