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英語授業と自己表現

2年生,英語科教育法IIの振り返り。

ディスカッション:英語授業における自己表現

トークテーマは「生徒が英語で自己表現をするために,どんなことが必要?」からスタートした。

  • 文法的正しさを求めないこと

  • 目的・場面・状況を示すこと

  • 表現したいという動機を掻き立てること

  • 表現する内容を考える時間をとること

  • 色々な表現の仕方を示すこと

学生から出た意見は概ね上記のような内容だ。

「文法的正しさを求めないこと」という意見を発端に,議論は「自己表現と正しさの両立」というテーマに移った。ここでもなんやかんや意見が色々と出たが,「一度表現させてみて,それを整える」というのがみんなに共有されていた基本的な考え方であることがわかった。

ある学生は授業内のスピーキングによる自己表現と正しさの両立について,「生徒の喋ったことをリキャストすることで間違いをみんなが気にすることなく訂正することができる」と振り返りで記述していた。この学生は3人の履修者の中でも特に積極的に自己表現できるコミュニケーション活動を大事にしたいと意識している学生だ。「リキャスト」を単にテクニックとして知っているだけでなく,それを自分の求める授業を生み出すための道具として使えるような思考ができていて,「お,2年生の段階でこういうことが書けるのは嬉しいかも」なんて思った。

実践と議論・思考の乖離

だが,翌週の本授業冒頭にその学生が行った「コミュニケーション活動の実践」(毎週一人が教師役になって,教室で行う10分程度のコミュニケーション活動を構想・実施する)では,事前にワークシートに一人で書いた内容を読み上げて発話するというスタイルの活動を行った。
自己表現の活動をWrite - Speakの順番にした彼だが,そこに特に明確な意思はないというか,「話す前に事前準備で書いてみる」ということがこれまでの(教室での)英語学習経験において当たり前すぎてそこへの疑いはなかったようだ。
ディスカッションでは,ミスを恐れずにとりあえず話させてみて,それを整えるのが良いのではないかと考えていたし,その言葉に嘘はなかったはずだが,いざ授業をやるとなかなかそういう形を生み出せない。
これはこれで英語教師の成長過程として興味深い事象だと感じる。

一応その後の振り返りでは,この形が彼の求める理想の授業の実現にはなかなか寄与しないのではないかということを確認した上で,アウトプットの順番をWrite - Speakではなく,Speak - Writeにするという考え方を提示した。「言ってみてから,書く」の順番だ。
話す・言うというのは言葉を目に見えない状態で扱い,時間とともに言葉が流れていく行為である。だからこそ,文法的にも内容的にも正確性・精度を極めるにはあまり向かない。
一方で,書くというのは,まさに私がこうしてnoteを更新し続けることもその一つだが,言葉を文字として表示しながら,それ自体を深く吟味したり,構成を整えたりすることができる行為である。(大学2年生のレポートを読む限り,あまりその書き言葉の精度を高めるということをしてきていない感じは正直あるのだが)

そう考えると,「一度表現させてみて,それを整える」という大方針に合いそうなのはSpeak - Writeの順番なのである。確かに事前準備なしで話させることは生徒にとっても教師にとっても不安ではある。しかし,少なくともメモとして書かれたものを手に持って話すなんて場面は日常の言語使用でも稀なはずである。一方で,誰かと会うときに「どんなことを話そうかな」という準備は確かに多くの人がするだろう。
そういう我々の日常的な言語使用のあり方を考えれば分かるように,「話す前の準備」は必ずしも書き言葉にする必要はないのだ。

実際,この英語科教育法IIの授業で行うディスカッションも「事前に考えては来てね,でも柔軟に考えながら議論するために,文章にはしてこないでね」と求め,そしてディスカッションであーだこーだ言い合った後には1週間以内にまとめのレポートを提出してもらっている。
まさにSpeak - Writeの順番だ。

「英語の授業」について考えるのを一旦やめてみる?

「英語の授業で生徒が自己表現をするには?」という問いからディスカッションを始めた私の責任だが,一旦「英語の授業で」とか「生徒」とかを取っ払って考えたほうがいいのかもしれない。そういう枠組みで考えると,どうしてもこれまで受けてきた無数の「やらされ感」や「退屈」に満ちた活動の経験(と,それを自分が模擬授業で再生産してきてしまっている現実)が彼らの思考を邪魔してくるのかもしれない。

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