読書会 - 『英語授業学の最前線』大学英語教育学会(JACET), 淺川和也, 田地野彰, 小田眞幸 (編)

静岡と長野を繋いで,『英語授業学の最前線』大学英語教育学会(JACET), 淺川和也, 田地野彰, 小田眞幸 (編)の読書会。主に柳瀬先生,吉田先生,竹内先生の論考に対して参加者からの問いを中心に検討したので,その記録として各章について1点ずつ問い・答え(?)・雑感を取り上げる。

「当事者の現実を反映する研究のために -複合性・複数性・意味・権力拡充」(柳瀬陽介)

問. 「当事者の現実を反映していない研究から当事者である教師が学べることは何か?」
読書会の中で自分が出した応答は,「単純化された研究は,ある意味自分の授業に取り入れるきっかけになりやすい。教室の文脈に合わせたアレンジはこっちでやればいいわけで。ただ,研究者側には,それがそのまま学校の教室で同じ結果を出せるものではないということは自覚しておいてほしい。」という感じ。
この問い自体,研究が「当事者の現実を反映していない」としても,だから何も学べないわけではないはずという思いが溢れてる感じが好き。
院生時代,「研究室より現場だよ」的なことを言われる度に,なんだかモヤモヤしていたことも多い。研究室にいた自分達は隙あらば「現場」に行こうという意識を持っていたし,「現場」でも活かせるような研究・何か「現場」に還元できるような研究をと思っていたし,何よりも,「そもそも大学院も教育の現場である」という意識を持っていた。
一方,「現場」の人たちは「どうせ研究なんて聞いたところで,うちの生徒達は…」という意識が強いと思う。これは自分も「現場」に入って強く思う。「〇〇の指導どうしてる?」みたいな話は(そもそもそんな会話は想像していたよりずっと少ないけど)あっても,それを本や論文まで辿って追い求めている先生はどれぐらいいるだろう。「そんな時間はない」と言われてしまえばそれまでだけれども。実際自分も個別の研究論文を読む数は院生時代に比べたら減っているのは事実で。
もちろん,柳瀬先生が本章で書いているように単純化されすぎた研究の蓄積が「現場」の教員が研究を参照しないことに繋がっているだろう。でも,「ゴールドスタンダード」ではない質的な研究が蓄積されたとして,「現場」の教員はそれをどれぐらい読んでくれるだろうか。そもそも研究論文を検索して読もうとか,近所で開かれる学会に顔を出そうとか,もうそういう行動の選択肢が多くの「現場」の教員にはないのではないだろうか。一応大学院を出て「現場」に入っている教員として,そこを繋ぐ役割みたいなこともしていくべきかもしれないと思ったり,そんなこと自分の時間を割いてまでする事じゃないかと思ったり。
(小・中・高の学校という意味での「現場」が鉤括弧付きなのは,先生方への煽りとかではなく,この問いを出してくれた大学院生への敬意のつもり)
自分としてはシンポジウムでの「複数の認識論を理解して、できればそれらを使い分けながら実践することです。仮に実践するのが難しいにせよ、複数の認識論を理解するということは、教養の欠くべからざる要素だと思います」(p. 106)という柳瀬先生の言葉が,我々に対しての鋭いメッセージとして刺さった。

「『二人称的アプローチ』による英語授業研究の試み」(吉田達弘)

問. 「『対象を二人称的に深く知るには、さまざまな経験をしっかり一人称的に捉えることが重要である(p. 68)』とあるが、結局一人称的な捉えかたは必要?不必要?」

そこそもこの引用文は吉田先生の章の中で引かれている佐伯胖先生の文ですが,まぁその辺は置いといて。
まず,二人称的アプローチというのは,「対象を自分と切り離さないで個人的関係にあるものとして,情感を持ってかかわり,対象の情感を感じ取りつつ,対象の訴え・呼びかけに答えることに専念する」こと
この二人称的アプローチが教師が生徒を見るときには大事とされると同時に,一人称的アプローチには批判的な目が当てられている。一人称的アプローチは,「対象を自分と同じ存在であるとみなし,自分自身への内観をそのまま対象に当てはめて類推する」ことであり,相手に共感しない自己中心的な他者に対する見方につながってしまうおそれもあるとされている。
それを理解した上で問いで引用された部分を読むと,「確かに,どっちなん?」ともなる。
読書会の中では無難に(?),「対象の情感を感じ取」ることが必要なのだから,自分自身も情感を持って何かを受け止める経験をしなければいけないということだろうと解釈された。(高1の頃の現代文の先生が言っていた「現代文の成績を上げたければ恋愛をしろ!そして出来ればフラれろ!」という言葉の意味がよく分かる。)そう解釈することは難しくないが,実際に小・中・高校生時代に授業に対して情感を持って受けていたという経験を(自覚的に)持つ教師はどれぐらいいるのだろうか。子どもの時には授業に対する情感を持っていたとしても,それを今思い出し,想像できなければ意味がない。自分の授業を受けている生徒たちの心の中にはどんな情感が生まれているのかを考えるためのトレーニングとして,自分自身が情感を持って授業を受ける・観ることが必要なのだろう。
しかし,それは二人称的アプローチをできるようになるための必要条件であるとしても,十分条件ではない。むしろ,そこだけで終わってしまえば「あの場面,自分ならこう感じる(から,あの生徒もきっとそうだろう)」という一人称的アプローチになってしまう。一人称的に捉えるトレーニングあるいは習慣から二人称的に捉える教師の専門性を生み出すには,もしかすると,三人称的アプローチ(対象を自分と切り離し,個人的関係のないものとして,傍観者的に観察し,「客観的法則」ないし「理論」を適用して解釈する)のトレーニングも必要なのではないだろうか。実際,冬休み明けから毎日続けていた生徒との関わりやその解釈を綴ったリフレクションを見返すと,三人称的アプローチに陥ってしまう日というのはほぼなくて,どちらかというと,「気を抜くとすぐ一人称的アプローチになっている」ということが多かった。二人称的に捉えるために,自己と関わりをもった者として生徒を捉えると同時に「自分と同一ではない」という視点を常に持っていることが重要で,その視点に寄与するのが三人称的なものの見方(を援用すること)なのかもしれない。


「何に着目すれば良いのだろうか -英語授業改善の具体的な視点を探る」(竹内理)

問. 「英語授業の着眼点として,学習者についての考察がベテランからも卵からも出てこなかったのはどうしてだろう?」
竹内先生の章ではベテラン教員と教員の卵(教員養成課程に所属する学生たち)が,それぞれ授業のどこに着目するかを調査した結果をもとに考察がなされている。アンケートの自由記述の質的分析から導き出された13のカテゴリには「学習者」という言葉が入ったものが一つもなかったことに着目しためちゃめちゃ鋭い問い。これだから人と本を読むことはやめられない。
質問者自身の仮説は,「アンケートの訊き方」が原因ではないかというもの。「英語授業を観察する場合や準備する場合,授業のどこに着目するか,そしてそれはなぜか」という問いを見て,「授業」と言われると,(教室の生徒の側から見た)教師の行動を想起してしまうと指摘してくれた。確かに,自分も「授業」という言葉を使う時にはそれを意識しているところがある。先日の校内の若手教員研修で1年間取り組んできたことを発表した際にも,最初「授業の改善」としていたところを後から「授業実践の改善」に変え,最終的には「教授学習サイクルの改善」とした。どこか「授業」という言葉だけで伝わるイメージでは足りないと感じるところがあったからこそだろう。
また自分と別の参加者は「データのまとめ方」の問題ではないかと考えた。カテゴリ名には「学習者」とは出ていないが,要素例を見ると「支援が必要な生徒への配慮」「生徒の顔が生き生きしているか」「生徒の発話量・回数」など「生徒」という単語自体は出てきたり,「めあての共有」「指示の明確さ」など(本来は)学習者の反応をもってしか判断できないような要素は含まれていた。これらを「学習者の様子」などのカテゴリとしてまとめることも可能だったかもしれないと考えたわけだが,こればかりは生のデータを扱っているわけではない我々には分からない。
しかし,不遜を承知で言えば,竹内先生の中にもどこか「良い授業(教室の生徒の側から見た教師の行動)」のイメージがあり,それがベテランからは引き出され,卵はそこにはまだ至らないという構図が(意識的か無意識かは別として)イメージされていたのではないだろうか。
更にこの指摘に関わるところだが,まとめの箇所でベテランは「めあて」を大切にし,教員の卵たちは「めあて」にあまり関心がないとされている。それ自体はデータから導き出された結論として受け入れられる。自分が気になったのは竹内先生はそれを「ベテランの授業の見方が良くて,卵たちはまだまだ」という立場でしか論じていないことである。もちろん授業のゴールとそこに結びつくプロセスを照らし合わせて授業を評価することが悪いことではないだろう。しかし,カテゴリ「学習目標」の要素例には,めあての提示・明確化・共有・強調・可視化が挙げられているのみで,めあて自体が(その授業を受ける生徒にとって)適切なものかどうかといった問い直しの視点がないことがこの上なく残念であると思えて仕方がない。もっと言えば,数年前まで生徒として授業を受けていた卵たちはその授業の多くで明確に提示・共有・可視化され強調までされていたはずの「めあて」を大して重要なものであると捉えていないことをもっと深刻に捉えるべきではないだろうか。教師がどれだけ「めあて」が大事だと言っても,その「めあて」に向かって学習活動を重ねる学習者の側にはその重要性は認識されていないのである。そのことを考慮せずに授業を観るポイントとして「教師がめあてを(どのように)提示しているか」を強調することは,教師のための授業改善風の取り組みではあっても,決して生徒の表れから見た授業の質的な振り返りには繋がらないのではないだろうか。この辺りは一度,「ベテランが多くを知り,卵はまだまだ表面的な部分しか知らない」という固定観念を取っ払い,深く考察し直したいと思うところである。なんなら「卵」というメタファーを使うこともやめて「学校教育の未来を担う新進気鋭の若者たち」とでも呼び直してみたらどうか。

文献情報

 『英語授業学の最前線』大学英語教育学会(JACET), 淺川和也, 田地野彰, 小田眞幸 (編)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?