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富岡製糸場の働き方

富岡製糸場は世界文化遺産なのだけれど、同じく文化遺産の姫路城や厳島神社などと比べるとあまり目立たない方だと思う。
けど世界遺産になっているということは、それなりの理由があるのだろう。という訳で富岡製糸場はここ10年くらいずっと気になっていたけど行けずじまいで、特に理由は無いけど今だ!と思い、12月のとある土曜日、行くことにした。

どんな場所なのか

朝、池袋からバスに乗って2時間ほど、あっという間に富岡に着いた。

あっという間に着いた富岡駅

そして富岡駅から歩くこと10分、富岡製糸場に着いた。
オー、以外と規模がでかい。レンガ作りの建物は案外大きく、敷地面積が結構広い、またレンガ作りがとても美しく、想像していたよりもオーとなった。

オー

ありがたいことにガイドさんの説明付きで見学できることになった。
1時間ほど敷地内を歩きながら、いろいろ教えていただいた。

開業は明治5年らしい。
今から150年前。大政奉還からわずか5年後。

1859年(安政6年)、横浜が開港し、日本はさまざまなモノを輸出するようになった。

やがてヨーロッパで微粒子病(蚕の病気)が蔓延するようになり、ヨーロッパからの蚕糸類の輸出が滞るように。また生糸を多く生産していた清(中国)でも当時アヘン戦争などもあり、生産量が減ってきていた。
これはビジネスチャーンス!富国強兵を目指す明治政府は、殖産興業の柱として生糸生産に力を入れていくことに。

しかし当時の日本は手作業で生産するスタイルだったため大量生産ができない。
これではイカンと、政府資本での機械製糸場設立が明治3年(1870年)年2月に決議される。

フランスから蚕製造のプロを招致したりして、なんだかんだ急ピッチで工場完成。
ビジネスのプロである渋沢栄一もこの一連プロジェクトにも関わったりして、結果、明治42年(1909年)には世界一の生糸輸出国になった。

その後戦前までの間、ずっと日本の輸出品目の中では生糸がトップとなり、富岡製糸場は外貨獲得に大きく貢献。この外貨が鉄道や他産業などがぐんぐん成長する力となり、日本が豊かになるひとつの要因ともいえる。

といった話を伺い、なるほど確かに文化遺産になるだけの価値をしっかりと感じられた。

機械で生糸を生産していた建物

それにしても明治5年の建物がこんなにも綺麗な状態で残っているのは、とんでもなくすごいことだ。戦前の建物を見つけた時も興奮するけど、富岡製糸場は戦前どころじゃないからね。

これだけ保存状態がいいのは理由があって。
官営だった工場は明治26年(1893年)に民営化され、その後何社かで運営が切り替わりながら、昭和61年(1986年)に操業を停止した。
となると建物を取り壊すか、勝手に朽ちていくかしそうだけど、最後に運営していたのは片倉工業という会社が、建物を2005年に富岡市に寄贈するまでの18年間、取り壊すことなく維持管理を行なっていたのだ。

すでに操業していないし利益は出さない建物にもかかわらず、建物の価値をしっかりと認識していて、膨大なお金をかけながら保存活動をしていたらしい。

うーん、すごい。歴史もすごいけど、こうした地道な活動無くしては富岡製糸場の価値が認められなかっただろうな。

労働環境

ガイドさんに労働環境についても教えていただいた。

当時、多くの女性(工女)が働いていて、彼女らのための寮が完備されていたそうだ。
食事も3食、会社負担で提供されていたよう。

工女が暮らしていた寮

また敷地内には診療所もあり、体調が悪くなったときにすぐに医者にかかることができた。その治療費や薬代も会社が負担していた。

敷地内の診療所

明治初期なのでもっと劣悪な環境で働いているのかと勝手に思っていたら、意外と福利厚生が充実していた。

労働環境について本で確認すると、さらに以下のようなことが分かった。

・1日の労働時間は7時間45分
・休日は毎週日曜日(50日)、祭日(6日)、年末年始(10日)、夏休み(10日)の年間76日
・給与は能力給で、等級(1等工女、2等工女など)によって決まっていた。給与水準は他の仕事と比較して高い水準だった。

これらを踏まえると、当時としてはかなり整った労働環境だなと思った。

休日については、明治政府が日曜日を休日と定めるのは明治8年(1875年)なので、時代を先取りしていたといえる。(江戸時代の商人や農民は日曜日の概念がなく、正月や天候不順のとき以外は働いていたと言われている。)

また労働基準法によって1日8時間労働が定められたのは第2次世界大戦後の昭和22年(1947年)なので、7時間45分労働は、これもまたかなり時代の先を行っている。
(ちなみに時代が進むにつれ、富岡製糸場も労働時間が伸びていってしまったみたい。)

では、こうした労働環境の中、離職率はどうだったのだろうか。

当時工女たちには1〜3年という勤務期間が提示されていた。ということは、1年経たずに退職はしないでねという規則であった。
にも関わらず、残っている資料(長野・埼玉から入場した工女の記録「工女名簿」)によると、創業の年に入場した工女の3分の2が、1年以内に辞めたとのこと。
早期退職の理由は、本当とのところは集団生活に馴染めない、楽しみがないなどであったが、表向きには「親が病気になった」という嘘の理由をつけて地元に帰っていったらしい。

工女たち
画像引用:東京国立博物館 研究情報アーカイブズ

150年前と大きく変わらない今

一通り富岡製糸場を見て回って感じたのは、あれ、150年前だけど、今とあまり変わらない?ということだった。

というのも、私は以前食品メーカーに勤めていたことがあり、半年間研修で工場勤務をしたことがあったからかもしれない。
そこでは決まった時間働いて、等級が上がってくると給料が上がるシステムがあった。寮もあった。産業医も常駐していた。そして多くの新人がすぐ辞めていった。

現代の社会の仕組みは明治時代に礎がつくられて、それが変わらず令和になっても存在し続けているという話はよく聞く。

例えば給与体系ついて、公務員や大企業では等級によって給与が決まっているのが今でも一般的だ。(入社時は等級が低く、次第に上がっていき、各等級での給与が明確に定められている。)
これは明治時代に、官庁で採用されていた制度を、企業や工場にも採用していったことから始まったといわれている。
富岡製糸場では現代の年功序列ではなく、能力によって等級が決まっていたものの、等級制度は採用されており、明治時代の労働環境が今に通じているという話を実感できたような気がした。

150年前は今とそれほど大きな違いはないと分かって、おもしろくもあったが、逆にそれって大丈夫なのか?とも感じた。

大量に人員を採用し、住居や、だんだんと上がる給与を確保して、長く安心して働けるという、日本らしい労働環境は、同じ産業が長期的に成長していた時代に作られたものだ。現代に適しているかと考えると必ずしもそうではない。
企業を横断した労働組合を持たない日本では、社内で等級が上がっても、会社を移ってしまえば同等の価値は保証されない。転職はリスクが伴う。

先が見えない時代なので、新しい産業に力を入れるべき、流動的に働ける社会を目指しいましょうと政府は言っていたりするが、明治時代から惰性で続いてきた社会の仕組みが流動性の妨げになっている感はあると思う。

とはいえ完全ジョブ型雇用の社会もサバイバルなのでストレスが溜まってしまいそうだ。なかなか理想的な労働環境って難しい。


という感じで、富岡製糸場を訪れたことで、明治と現代の繋がりを感じられ、大変充実した滞在であった。

もし私が富岡製糸場の工女だったとしたらどうだっただろう。
日本社会がどうとかは一旦置いといて、睡眠、食事、労働という生活のほとんどがすべて会社の敷地内というのは、ちょっと嫌かもなぁ〜など考えながら帰った。


【参考】
今井幹雄(2014)『富岡製糸場と絹産業遺産群』KKベストセラーズ
小熊英二(2019)『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社現代新書

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