世界の狭さについて
今、僕の見ている世界はものすごく狭いと感じている。
ネットを見ようが、新聞を見ようが、テレビを見ようが、はたまたどんなに気の合う人と関わろうが、何を見ても自分の世界にはさらにその外があると感じる。
いや、自分の受け取れる世界には常にその外があると知っていることは必要なのだろう。
人はややもすれば自分の世界が全てだと考える。
だがそれはほとんど常に空想だ。
本来の世界の姿は全く意味を持たないし、世界に意味を求める人ほど堅苦しい生き方を自ら好んで選んでいる。
いいか、自分の世界は狭いのだ。
もっと言えば、他人の世界も狭い。
自分と他人を合わせた世界もまだ全然狭い。
重要なのはその外側だ。
人はそれを意識外と言う。
それは観念的には正しい部分もある。
だが誤解もある。
僕は言語外の方がより正しく受け取られる気がする。
だが多くの人は言語から飛び出した場合、何に頼って生きていけばいいかを見失う。
そしてそれは自分の慣れた世界においてはよりそうである。
しかし外の世界には常に無意味で広大で自由な世界が広がっている。
つまりはあらゆる煩悩から離れることができるわけだ。
そして人は、その自由な世界を常に世界の間違った見方だとして、人道から離れているとして、道徳という名の空想を突きつけて、排除していくわけだ。
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